2017.03.28

バッハ無伴奏ガンバ組曲

宇田川貞夫さんのバッハの無伴奏ヴィオラ・ダ・ガンバのための組曲を聞いている。チェロ組曲とリュート組曲をもとにガンバ用に直したもの。

この曲はチェロによるもの、リュートによるもの、ギターなどの編曲も含め色々な演奏を聴いてきた。トルトゥリエやロストロポーヴィッチ、ビルスマの演奏も記憶に残っている。

しかしガンバの演奏でこの組曲を聞くのは初めてであった。そして聞いて大きく心が動いた。

編曲の経緯は宇田川さんご自身が解説なさっているが、この組曲には実はガンバ版の楽譜もあったのではないか、それが歴史の中で失われたのかもしれない、そう「空想」なさった。その楽譜を息子のエマヌエル・バッハがフレデリック大王の甥フリードリッヒ・ウィルヘルム2世に献上。王様がガンバ弾きのジャン=バプティスト・フォルクレ(あのフォルクレの息子)に提供したかもしれない、そうお考えになった。その当時の音楽に出てくる人たちを知っていると、とても興味深いストーリーになる。

ガンバ編曲版は元のチェロやリュートとは調性が異なる。それは各楽器の開放弦の配列の違いによる。ガンバはチェロより弦の数が多く、リュートのような発弦楽器ではなく弓で奏する楽器であるため、ガンバ版の組曲は両方の楽器のための組曲の良いところを合わせたような感がある。弦の数が増え響きが豊かで、弓により長い音の美しさや情緒がよく引き出されているように聞こえる。テンポは敏捷なリュートの演奏とは異なり、弓の特性を生かしゆったりめになっている。

バッハのこの組曲を最初に知ったのは、チェロでもリュートでもなく、笛からであった。ブリュッヘンがチェロの組曲をアルトリコーダー用に編曲していた。それを懸命に練習した覚えがある。それは当時の笛好きの若者の多くがしたことであったかもしれない。それでバス記号を読めるようになったというおまけもある。組曲をきちんと聞いたのは、トルトゥリエのチェロでの演奏であったと思う。初めて聞いたとき、これは初老の穏やかな紳士の独白である、そう思った。端正にして真摯。

宇田川さんの演奏は、それをもう一段内省的にしたもののように感ぜられる。バッハの無伴奏組曲は、彼が器楽曲に取り組んでいたケーテンの時代に書かれたものであるが、ここでの演奏は単に器楽曲の演奏というより、作曲者と演奏者の心の奥のメッセージを聞き手に届けるものになっているように思えた。

それはどうしてなのか。調性の影響もあるかもしれない。ここに収められているのは第2番ホ短調 (BWV1008) と第5番ニ短調 (BWV995) で、どちらも短調の曲である。では宇田川さんはなぜ、短調の曲をお選びになったのか。

解説で、バッハはガンバに他の楽器にはないイメージを持っていたのではないかとお書きになっている。ガンバが使われているバッハのカンタータや受難曲などを見てみれば、バッハはルター派の死生観を音で表現するためにこの楽器を選んでいるというのである。そう考えることはガンバ奏者にとって誇りでもある、とさえ書かれている。

1994年の悲しい出来事のあとの宇田川さんのBWV198番(皇妃よさらに一条の光を)の演奏会も思い出される。そしてなにより年齢がある。色々なことが選曲にまた演奏に反映していると思う。この演奏には聞いているこちらに深く深く届くものがあるが、それもそのようなことが影響しているのかもしれない。

聞く者の心を動かすのはその演奏に由来するだけではないかもしれない。録音が豊かな響きを捉えていて、まるで眼前で宇田川さんが弾かれているように感じられるのである。制作をしたWAONの小伏さんが機材や素材を色々に工夫されているが、低音弦で楽器が振動しているさますら感じられる。近江楽堂での演奏もこちらで聞くことができるが、このCDは演奏録音共に特別のものになっている。当方も解説の翻訳でお手伝いをさせていただいたことをとても有難く思っている。

無伴奏ヴィオラ・ダ・ガンバのための組曲(WAONCD-310

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2017.03.23

批評の第一歩

取捨選択は一つの批評にほかならない。何を選び取るか、何を語るか。逆の表現をすれば、何を選ばず、何について語らないか。そこに自ずとその人の批評する目、識見が反映している。

取捨選択されたわずかな表現からも、そしてそれ故に明らかになる表現されていない多くのことからも、様々なことが読み取れる。表現の巧拙は後のこと。まずは取捨選択それ自体が自己の表現であり、批評なのである。

しかしここには多くの層がある。(1)まずは何かを採り上げて表現する者がいる。その選択に批評の第一歩が始まる。(2)次にその表現するもの表現しないものから表現者の何事かを読み取る批評者がいる。(3)その先にその批評者の批評するもの批評しないものから批評者を観察している者がいる。かくして初源から次の次元へとメタの思考を重ねることになる。

こうしてみると、それぞれの次元ですべての人が批評をしていることになる。だがその批評は人それぞれ。それこそが個性である。


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2017.03.22

二重楕円

人里離れた山に仙人がいた。麓の村人とは隔絶した暮らしをしている。あるとき洪水が村を襲い、村人はその土地を離れ新天地に移り住んだ。しばらくして村人が新たな土地で山に入ってみると、そこにあの仙人がいた。

笑い話として記憶していたこの話がふと甦ってきた。仙人もやはり人恋しいのさ、という話であるが、これは人間の本質をよく表していると思う。人は一人では生きられず仲間を必要とする。その仲間との距離は様々で、常に仲間を身近に感じたい人もいれば、この仙人のように距離を置きたい人もいる。しかし距離の違いはあっても他の人が必要である。

別の表現をすれば、個は共同体の一員ということ。個の確立は大切であるが、個人と集団は対立するのではない。個は集団の中に包摂され、両者の関係は二重楕円のようなものである(外の楕円を何にするかは、その人の自らの把握のし方による)。

二重楕円の図を使うと、物事をうまく説明できる場合がかなりあるように思う。

芸術家や物書きの人は、ほとんどの時間、自分の居場所で黙々と仕事をしている。しかし作品が出来上がれば節目の会が催される。ときには同業と集うこともある。都会に出たり旅行をして、そこで充電してまた自分の日常に戻る。そのような個の参加で集団の方も励起される。それは二重楕円の相互作用といえる。

晴れと褻、クラス会と日常生活、お披露目と修業、うたげと孤心など色々な捉え方があるが、その意は同じ。共同体の中に溶けてしまっては自らの存在意義はなくなる。かといって共同体と無縁となっても却って個を確立できない。他との昂揚した接触があってこそ省みて個を確立することができる。二重楕円を行ったり来たりである。


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2017.03.20

強ひ語りについて

いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり
いなと言へど語れ語れと宣らせこそ志斐いは申せ強ひ語りと詔る

これは天皇と親しい女官との戯れの歌のやり取りで、万葉集巻三の第236番と第237番として記録されている。微かな記憶として残っていたこの二つの歌を改めて読んでみると、色々な疑問が出てきてもう少し詳しいことを知りたくなった。やり取りはどのような状況で行われたのか、強ひ語りとはどのような内容であったのか。

第236番の題詞には「天皇賜志斐嫗御歌一首」とあるが、どの天皇を指すのか確証がなく、持統天皇とする説が有力であるものの文武天皇説などもあるという。第237番の方の題詞は「志斐嫗奉和歌一首」である。

まず天皇とは持統天皇(645-703)か、その孫の文武天皇(683-707)か。それによって歌の状況は変わってくる。持統天皇であれば二人の女性が長年親しんでの交情を戯れ歌にしたと解することができる。

しかし文武天皇とすると持統天皇の孫でありまだ若者になる。若い天皇に対し老女官が、まあお聞きあそばせと強ひ語りをするという情景が浮かんできて、前の印象とは違ってくる。

志斐嫗の志斐は、氏の名とすることもあるし、この歌の内容が強語をめぐる応答であることからここで付けられた名とすることもあるという。仮に志斐が氏の名であったとて、ご当人も話好きで誰かがその話を止めさせることは難しかったのではないか。

それはともあれ、志斐嫗の強ひ語りの内容はどのようなものであったのか。そこに興味を覚えた。

最近北の独裁者が腹違いの兄を暗殺するという事件があったが、白鳳の時代の飛鳥はそれをはるかに上回る複雑な争いがあった。白鳳と聞けば飛鳥に花開いた明るくおおらかな文化を想起するが、大化の改新(645)があり古代日本最大の内乱といわれる壬申の乱(672)、大津皇子の事件(686)が起きるなど、朝廷は平穏ではなかった。

鸕野讃良(うののささら、後の持統天皇)が生まれたのは大化の改新のあった年である。父は中大兄皇子、後の天智天皇である。13歳にして叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁す。なお中大兄皇子は彼女だけでなく大田皇女、大江皇女、新田部皇女の娘4人を弟の大海人皇子に与えている。

壬申の乱は、天智天皇の弟の大海人皇子と、天智天皇の子である大友皇子の間の戦いで、叔父と甥とが争ったことになる。乱の際に鸕野讃良は夫の大海人皇子と行動を共にしている。戦いに敗れた大友皇子は自害するが、鸕野讃良から見ると大友皇子は腹違いの弟である。

686年天武天皇が薨去、その子で立ち居振る舞いにも才覚にも優れる大津皇子は謀反の罪で自害させられる。背後に鸕野讃良の意思があることについては諸説で一致している。鸕野讃良にとっては父母を同じくする姉の子供を殺害したことになる。これにより天武天皇と鸕野讃良の間の子で皇太子である草壁皇子の地位が安泰となったかに見えるが、草壁皇子は689年に病死。そこで天武天皇の皇后である鸕野讃良が即位し持統天皇となる。

以上を踏まえれば、強ひ語りの内容がどのようなものになるのかは、自ずと想像ができるのではないか。

それは単に他愛のないものであったとは考えられない。古代とはいえ庶民の昔語りではなく、国を治める者にまつわる大切な話を、齢を経た女官が語り部として何度も繰り返したのであろう。ただそのような厳しい話が続く中に、ときに聞く者を莞爾とさせる挿話があったかもしれない。

歌を歌として純粋に読めば、いつどこの誰にでもあり得る普遍を歌い上げたものとして味わうこともできよう。しかしその歌の成立の事情を知り読み手の心情に思いを致して読めば、それもまた多くを感じ考えるきっかけとなる。二つの歌を読みその周辺の事情を知っての感想である。

(このほかに、二つの歌が歌たる所以は何か、音韻なのか、繰り返しの形式なのか、そこに用いられる「てにをは」を翻訳したときに失われる何か微妙なものがあるのか、など国文、国史に限らず、詩や翻訳についてもあれこれ疑問が湧いてくる。文学部に入学したら調べてみたいテーマがいくつも生じてくる。)


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2017.03.08

共通の物差

英国のエージェントからある翻訳を見てくれという依頼が来た。費用をかけて作ったパンフレットだが、その翻訳が原文と違うように見える、クライアントからそう言われたので、検討して欲しいというのである。原文には、色々な形に訳せる高い理想を掲げたやや抽象的な表現がいくつも出てくる。

今はグーグル翻訳などでどのようなことが書かれているのか手軽に確認できる。クライアントも、出来上がった訳文を反訳して英語に戻し、原文と比較したのかもしれない。そうやって対比してみれば、原文に使われていない単語が出てくるし、原文にあるのに訳文には出てこない言葉もある。そのような直訳を基準にすれば確かに違う。

しかしその翻訳はその販促物に合わせた適切な表現になっている。さてどう返答したものか。

こんな風に返事をした。
(1)一般に販促物では、論文などと違い論理性を重視するのではなく、読み手の想像力を刺激するような表現が多く使われます。

(2)ところが、ある情緒を喚起したり想像力を刺激するための単語、熟語、表現は各言語により異なっています。それらにはその国の歴史や風土なり社会現象と結びついたものが数多くあります。そのような表現に接したときに、人々の心に歴史風土社会の総体が喚起されるといったらいいのかもしれません。この共鳴を呼び起こす表現は言語によって異なるものがあります。

(3)パンフレットの原文の表現を見ていくと、原文の読者には訴えかけても、それを直訳しただけでは背景知識を持っていない読み手の心に響かないようなものがいくつもあります。そこで、翻訳をした人は原文のニュアンスを十分に把握しよく考えたうえで、それを表現するのに最も相応しい訳文を作ったように思います。誤訳などではありません。むしろその努力に敬意を表したいと思います。

人にはその人なりのものの考え方があるが、それは生まれ育った環境にかなり影響されている。そしてその生まれ育った環境、大きく捉えれば文化というものは様々である。

ところが私たちはその多様性について気付かず、自分のものの考え方が他にも通用すると思ってしまうことがある。上のクライアントも、そして間に立った翻訳会社の担当者も、そのようなところがあったのであろう。

物差に譬えれば、自分の持っている物差だけではなく、別の物差もあるということ。今はメートル法のものが主体であるが、日本でも少し前までは曲尺や鯨尺を使っていたし、外に出れば未だヤードポンド法の国もある。そこになかなか気が回らない。

翻訳は異文化の懸け橋ともいえる。違う尺度で考える人にも成程と納得してもらえる説明の能力も必要。手持ちの物差をどう利用するか、或いは物差がないときにどうするか。何を共通の物差にするのか。色々な方法が考えられる。そしてこのことは翻訳に限る話ではない。

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2017.02.28

燈台下暗し

アルス・ノバの演奏会の当日。ルネサンス用の衣装の準備をしていたら、ないないと言っていた侍風衣装が出てきた。今回は使わないが、中世の音楽をするときに着用させられるもの。皆がヨーロッパの中世風の衣装でいるところに、一人中世の侍の衣装を着た日本人が加わるのである。

衣装は鎌倉武士風ということでアニークが誂えてくれ、昨年夏バルフレールの演奏会のときに一回着用した。こちらの人の考える日本の侍の衣装で何とも珍妙であるが、一生懸命にやってくれる気持ちを大切にして畏まって着用した。頭には彼女がソンブレロのつばを切って仕立てた烏帽子というか衣冠束帯装束の冠のようなものをいただく。

そのときには、こちらも興に乗って刀を腰に帯びた。これは本物の日本刀である。昭和20年、村のピエールの父親がインドシナにいたときに、武装解除をした日本の帝国陸軍の士官から貰ったものという。意外なところに意外なものがある。

前にその刀を見せてもらったことがあるので、それを彼から借り出した。こちらにも銃刀法があるので、公然と裸で持ち歩くことはできない。車に積んで演奏会場で身に着けただけで、聴衆はあまり気付かなかったであろう。まあ自己満足である。

ともあれ、その妙な鎌倉武士風衣装がその演奏会の後で行方不明になった。アニークに聞かれたときには、昨年夏の演奏会のあと縫ってくれた女性に手直しをするからと言われて確か返したはずだと答えた。

見つからないのは、物の多いアニークの家のどこかに紛れているのであろうと想像していた。従って尋ねられても、こちらの返事はにべもない。昨年秋に一度、中世の曲での演奏会をしたときには一人ルネサンスの衣装で凌いだが、ひとしきりあの侍の衣装はどこに行ったのかと皆で騒いだ。

それが今日、演奏会の朝に出てきた。埃除けのカバーに入ったものが当方のハンガーにちゃんと掛かっていた。中が見えないために気付かなかったというわけ。

演奏会の会場でリハーサルが一段落したときに、皆の前でアニークに楽譜を入れた固い表紙のフォルダーを渡した。ちょっとこれで僕の頭を叩いてくれ。

彼女がにやりとして「見つかったの」という。「そう、今朝、家の扉を叩く音がする。出てみたら、あの衣装を着たお侍さんだった。昨年夏バルフレールを出て、毎日少しずつ歩いてようやくここまで到着しました、というんだ」そう答えた。

皆がやれ良かったという顔をする。燈台下暗し(アルス・ノバについてはこちら)。

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2017.02.21

音階

以前楽曲解説の翻訳をお手伝いしたCDをまた聞いている。小林木綿さんのイタリアバロック歌曲の演奏会のライブ録音である。彼女はラ・ヴォアというリサイタルを2005年から続けていて、この録音はその2015年のものである。通奏低音はリュートの高本さんとガンバの宇田川さん。

採り上げられているのはランディ、サンチェス、カリッシミ、メールラなどのイタリアの歌曲である。ひとたびそれらの音楽を聞き始めると、小林さんの真っ直ぐな声を通して、その歌が聞き手の心に飛び込んでくる。

こちらに訴えかけてくるのは彼女の歌だけではない。通奏低音、特に後半の宇田川さんのガンバ。音階を上下するだけ、あるいは半音階で下降するだけなのだが、それが歌とぴたりと合っている。聞くほどにその静かな絃の響きがこちらの身体を満たす。なぜなのかと不思議に思いながら聞いている(WAONCD-320)。

(解説の翻訳をしているときに、マリオの所でその話をすると、それならこれも聞いたらとカリッシミの曲の入った録音をすぐに棚から取り出して貸してくれた。聞きながらそれも思い出した。)

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2017.02.06

あるエッセイ

ボンヘッファーの『10年後に』というエッセイに次のような言葉がある。

愚かさは善にとって悪意よりも危険な敵である。

悪意に対しては抵抗できる。その悪意を明らかにし必要なら力を以て防ぐことができる。悪意には常にそれ自体の中に悪の兆しを蔵していて、それにより人間は少なくとも居心地の悪さを感ずる。

しかし愚かさに対しては打つ手だてがない。愚かさには抗議も力で押さえつけることも役に立たない。理性を聞く耳を持たないし、その人の偏見に反する事実は単に信ずる必要はないものとして片付けられる。

そのようなときには愚かな人間は批判的にもなる。事実に反論できなくなると、彼らはその事実を取るに足らず偶然であるとして単に脇に退けてしまう。総じて愚かな者は悪意を持つ者と違って、自己満足の塊となり激しやすく攻撃を続けて凶暴になってくる。

それ故に愚かな者に対処するときには悪意を抱く者に対するときよりもさらに注意が必要になる。愚者を理性で説き伏せようとはしないこと。意味はないし危険である。

この言葉には時代を特定できる要素は何もない。しかし彼がドイツ降伏直前の1945年4月9日に処刑されたことを知れば、その発言の背後にある時代の雰囲気を感じ取ることができる。享年39歳であった。

さて彼の発言を聞いてどうするか。救いようはないのか。我が身を守るだけなのか。

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2017.02.05

共感

どのようにしたら共感できるか。同じようなことを体験してみれば共感しやすくなる。しかし体験には限りがある。そこで知ることが大切になる。無知であってはいけない。そのうえで想像力の翼を拡げてみる。どこまで飛翔することができるか。

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2017.02.01

何を読んでいるのか

米大統領が大統領令で、中東・アフリカの7か国の国民や難民の入国を一時禁止としたことを受け、全日空と日本航空が対象の人の米国便への搭乗を原則として断る方針を決めた。

それを伝えたあるメディアに対して、苦言を呈した人がいた。このメディアには、航空会社がトランプの非人道政策に消極的に加担しているという非難のニュアンスが感じられる、もしそうなら十分な背景取材をして報道しなくては、というのである。

この人の発言に対する人々の反応が興味深い。多くの人が航空会社の対応について論じたのである。さらには、トランプのやっていることは人権侵害であるという発言もあった。

何が興味深いのか。

話は3つの層になっていると思う。まず基層に大統領令がある。その上に航空会社の対応という層がある。そしてさらにその上に報道という層がある。苦言を呈した人は報道の姿勢について論じたのであるが、多くの人々は航空会社の対応について議論を展開しそれに終始したのである。

報道姿勢を問うときには、その報道対象となっていることについて事実関係や背景を確認しなければならず、この場合であれば航空会社の対応という第2の層を調べ、さらには根本的な大統領令の当否を考えなければならない。しかし、そのような検討を終えたら再び議論の出発点となった報道姿勢の問題に戻って来る必要がある。

ところが多くの人は苦言を呈した人の真意を読み取れず、議論が発散してしまった。特に枝葉が繁っていると幹が見えなくなる。一体何を読んでいたというのか。これは床屋政談の典型例である。

話をよく聞くというのは極めて難しい。そして相手の言わんとすることに沿って議論を続けるのはもっと難しい。そのような検討を経たうえで、首尾を整えるのは最難事かもしれない。

何が論じられているのかを最初に明らかにし、その主題から逸脱せず議論を展開し、結びで最初に戻ってくるということは、論文を書くときに指導されるが、そのような態度が大切なのは学問の世界だけではない。無用の繁をなくし、ものごとを前に進め、さらには日々を静穏にするうえでも欠かせない。

とはいえ世の中はそれほど理詰めではない。早とちりと床屋政談でものごとが進められてしまう場合も多いかもしれない。そこが人間の面白さ。理性を重んじつつも、火の粉が飛んでこない距離でその現実に対処する用意が必要かもしれない。

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2017.01.31

ピラミッドを登っていくと

お便りを有難う御座いました。文面から社会の中堅にあって悩み自己を模索している貴方を感じました。読んでいて思い浮かんだのはピラミッドです。

入社したときにはその一番底辺にあり、多くの同期同輩と切磋琢磨しあい懸命に仕事をする。ある意味では楽しい時代です。しかし貴方は既にその時期を過ぎ、仕事ではかなりの責任を負うようになっている。上に仰ぎ見る先輩や上司がいるし、付いてくる後輩もできた。自分なりの見方も少しずつできるようになっている。家族に対する責任もある。ピラミッドの中ほどをよじ登っているというところかもしれませんね。

お便りから伝わるのは、仲間が少なくなっていくある種の孤独感でしょうか。もう若手といっていられない年齢でしょう。人は誰も時間が経てばこのピラミッドの上に押し上げられていきます。努力をしていればなおさらです。それと共に各自のすることは代替の利かない独自のものになって行きます。

上になるほどピラミッドの中では余地が少なくなります。話す相手もいない。そのときどうしたら良いのか。

あれこれ思うときには外を見たらどうかな。外を見ると実はピラミッドは一つではないことに気付く。見晴らしの利く所から眺めれば、貴方と同じような立場の人が外にいるのが見えます。これまでずっとお話を聞いていますが、貴方には人並み以上の何かが与えられていると感じられます。中でしっかり仕事をしているのは当然でしょうが、そこにただ身を屈するのではなく、外に優れた友人や師を探してみるのもいいかもしれません。

ある程度のところに達して、そのピラミッドの中で同類を探すのには限界が出てきたということを別の言い方にすれば、貴方は孤独であることを恐れず個である覚悟を固めるときに達したということかもしれません。夏目漱石に「私の個人主義」という講演録があるので、行ヒテ余力有ラバですが、ご覧になることをお勧めします。自己本位という言葉で自分を確立するまでの苦闘の記録です。「自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てた」という表現に漱石の感動が表れています。そのとき彼は34歳でした。

群れる必要はありません。いや高みを目指すなら群れてはいけないということかもしれません。それはどの世界も同じでしょう。並み居る人々から頭抜ける人は、実業家も作家も芸術家も、ある時点でそのような自覚に達したように思います。

どうか頑張ってください。

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2017.01.26

皆同じ

そんなに自分を責めることはない。余り恥ずる必要もない。君のしていることは他の人もしている。皆同じなのだ。

逆も然り。他の人のしていることは君もする。善きにつけ悪しきにつけね。皆同じだからだ。心せよ。

今も昔も、どこにあっても人のすることに変わりはない。

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2017.01.21

はああれか

年長者が一般論を言う。事情を知らない者には何のことかわからず、その話は右の耳から左の耳へと抜けていく。しかし当事者なら例の話だとわかる。当事者でなくとも様々な経験を積んだ者なら、何かがあると察することができる。

あの人は何故このような話をするのか。その背後にどのような事情があったのか。その動機を察することがものごとの理解を深める。

それと共に古老の一般論はそれと気付かず記憶にとどまり、将来同じような事件に遭遇したときにそのときの声が蘇ってくる。身を処すときの指針ともなれば、歴史を繙くときの役にも立つ。

個別の事情や当事者の名前に言及せず一般論で述べるには、事物の本質を的確に抽出する力が要る。それはある種の抽象的な演算である。しかしそれは誰でもいずれ身に付く。年季を入れれば自ずとわかることがある。

一般的な言い方とは、個別具体性を捨象していつの時代にもどこの地域でも通ずる普遍的な表現である。それはときにはイソップのように寓話に形を変えることもあるが、人々の叡智なのかもしれない(いつどこで誰がの先に)。

その人の指し示す事象を想像し、それと共にそこからどのような普遍を学び取るのか、そんな意識をもって年長者の話に耳を傾けてみる。あのことかと納得しながら、その先の教えを理解するつもりで。

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2017.01.15

累乗

水底の気泡はやがてぼかりと水面に浮かんでくる。思念も同じ。散歩をしながら頭の中でいろいろお浚いをする。1、2、4、8、16、32。あなたがいて、父母がいて、祖父母がいて、曽祖父母がいる。3百年10代遡ればその代のご先祖は1024人いる。

それは当たり前の話。しかしそれをどこまで自らのものとして咀嚼できるか。若いときには、「ああそう」で済ましていた。それがいつしか厳粛な事実となる。というのもそれは自己の存在理由に関わるから。何故孝養を尽くすのか、何故先祖を祀るのか。そう、1024人の1人が欠けても今のあなたは存在しないのである。

そして今から3百年すればあなたも新たな1024人の1人になる(10億の糸)。

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2017.01.09

個別と普遍をつなぐ

困った問題があり、それをすぐに解決してくれる答が欲しいことがある。そんな状況のある人が物のわかっている人に助言を求めたが、その回答は抽象的な表現で、明日また始まる現実への具体的な解決方法は得られなかったという。期待外れという訳である。

しかし助言は本当に期待外れであったのか。物のわかった人が何故そのような答えをしたのか。

それを考えることは古典が読み継がれている理由を考えることとも重なる。往時の人の生活は今とは違うことが多い。それなのに何故私たちは古人の言うことに耳を傾けるのか。遥か昔の人の言葉が今も人々に感銘を与えるのはどうしてなのか。

人は千差万別。自分が置かれているのと同じ状況は世界のどこにもない。あなたの状況にすぐ役立つ出来合いの答も存在しない。それを今すぐにと求めるのは「ハウツーもの」を漁るようなものかもしれない。聡明な人の話を聞くのは古典を読むのに通うものがあるように思う。相談をした人は、そんな意識を持ってもう少し助言の意味するところをお浚いしてみても良かったのではないか。

ではどうするか。

そのときには、一度山に登ってから降りてくるということをしてみる。個別から普遍の高みに一度登ってそこから見晴らしてみる。すると細部は異なるものの、同じような状況は至る所にあると気付く。それらに共通して当てはめることができるものを普遍という。そのうえでもう一度個別という地平に戻ってくるのである。

では普遍の高みによじ登るにはどうしたら良いのか。個別と普遍とをつなぐものは何か。

それは究極的には自ら考えるということかもしれない。その考えるという中味をさらに解きほぐせば、個別具体の中にあって個別具体を超えいつでもどこでも通用する結晶を抽出するということである。それが普遍である。

そのためには
(1)自分から距離を置いて第三者として今の状況を記述してみる。そのとき記述から個別性を取り除き一般的な表現にしてみる。固有名詞を普通名詞に置き換えるのである。これが普遍化の基本になる。
(2)或いは違うものと比較してみるのもいいかもしれない。現象として違うものの中に同じものを見つけるには普遍化・抽象化の能力がいる。

困っているときに貰った助言とは、この普遍の峰に登るときの手助けであった可能性がある。古典が読み継がれるのも、そこに普遍化できる様々な要素があるからである。

さて山から下りたら、今の自分の問題を考える。個別具体的な自分の状況にぴたりと合う解決策を見つけるのは、あなたにしかできない。けれども山頂から四方を眺めた経験はきっと役に立つはずである。手の中にはそのときの結晶がある。

少し観点が違うが以前にも同じようなことを言っていた(具体と抽象の往復 普遍となるもの)。

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2017.01.04

少ない縁

何かのきっかけで誰かと接したとする。その人はあなたのしている仕事にはつながらない人かもしれない。高名な人や重要人物でもない、どこにでもいるごく普通の人かもしれない。しかし接しているときには気持ちをその人にすべて傾ける。

その偶然の出会いについてはすぐに忘れるかもしれない。けれどもそうしてできた縁は、大量生産され棚に並んでいる商品とは違う。その縁を簡単に取り替えたり捨てたりすることはできない。先ばかり見ていると、今自分が接している人が棚に並ぶたくさんの商品のように思えてしまう。しかしそれは違う。

何故か。それはその出会いとつながりは、あなたの時間、つまりはあなたの生命を費やして取り結ぶことのできた、かけがえのない関わりであるから。偶々と思えても、その向こうに自分でも気付かない意思が働いているかもしれないし、天の配剤があるかもしれない。

そして偶々の数少ない縁も大切にしていれば深くなる。時にはこちらから働きかける。今日はというだけでもいい。長い時間が積み重なればそれ自体が価値となり、そこから多くを学ぶかもしれない。結び付きを数多くするのも一つの方法かもしれないが、それでは一つ一つのつながりを大切にする時間が取れなくなる。数に拘泥することはないし、ましてそれを他と比較する必要もない。数は少なくとも生じた縁を生かす。いまここで、その人に全力を傾注する。

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2016.12.30

どうするか

羊の群れに狼がきた。私もここに入れてください。皆さんと一緒に暮らしたいのです。やさしい羊たちは彼を受け入れた。しかしその後ときどき羊がいなくなるということが起きるようになった。

さあどうする。

軽井沢の熊を思い出した。熊が人里に出没してゴミを漁るのである。

町では駆除という選択はしなかった。その替わりに熊の食性や行動範囲などの生態をよく調べ、熊対策のゴミ箱を設置するようになった。手先が器用で力の強い熊でも開けられない。そのうえで住民にはゴミの分別ルールとゴミ出し時間の厳守を依頼した。

人間のルールを知らない熊さんと共存するには、それなりのことをしなくてはならない。

ここから学ぶのは
(1)その生態や行動様式を知ること
(2)堅固な備えをすること
(3)自らを厳しく律すること

羊も狼も概念を拡げれば同じ動物として括られるが、細かく見れば別種の動物である。同じでも違うということを意識しないで接触すれば問題が出てくる。

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2016.12.29

逆からの発想

これだけしかないと思い詰めてしまわないためにはどうするか。八方塞りとならないようにして新たな発想を得るにはどのような工夫をすれば良いのか。

ただ「考えよ」と言うだけでは助けにならない。考えるときの助けとなるものはないのか。

行き詰まっているときに、リラックスしたらと言われる。確かに緊張を解き寛いでいると新たな思いつきが浮かんでくることがある。しかし寛いでいるとき頭の中でどのような働きがあってエウレカと叫ぶことになるのか。それを知りたい。

発想法についてはいろいろな人が書いている。情報を集めて整理すると何か思いつくと言う。しかし収集と整理をするだけでは、集めた情報の枠内に極限されてしまう可能性がある。今ある枠を超えて思いつきの能力を高めるにはどうしたら良いのか。それを知ることは創造性につながる。

発想を豊かにする一つの工夫は比較である。昔やった同業他社比較や、前年比、過去5年の推移の観察などはこれに該当する。さらに、家郷・故国を離れて外に出てみると気付きがあるというのも、比較の視座を得るからこそである。ただこれも実は既存のものに制約されている。

そこで縦横、内外、上下、前後、+-、過去未来などを入れ替えてみたらどうか。これは比較ではない。逆から考えるのである。それが新たな発想を得るときに役立つかもしれない。

例えば朝都心に向かう電車を待っている。既に満員。ではこのプラットフォームで回れ右をして逆方向の電車に乗ったらどうなるのか。

外から内に何かが入ってくる。それは外から押してくるのか、内で引いているのか。そこまでは誰もが考える。それをもう一歩進め、逆に内から外に出してみたらどうなるのかと想像してみる。すると色々なことが新たに考えられる。

内国法人・外国法人、国内投資・国外投資を組み合わせれば4つの事例ができる。税務の仕事をしているときに、事案がこの種のマトリクスのどれに該当するのかをまず見極める必要があった。その体験が逆からの発想の出発点かもしれない。

随分前のロボコンで、ロボットが何種類かの動作を行ってから、ある品物を所定の位置(自分の陣地)に取り込むという課題が与えられた。それを参加している各国学生混成の2チームずつで競うのである。

各チームは課題の品物を自陣に如何に早く取り込むかに腐心していたが、アフリカ系の少年がある策を考え出した。自分の所に物を運ぶ前に、まず相手方の陣地の口を塞いでしまうというのである。なるほどね、舌を巻いた。

犬が西向きゃ尻尾は東。押しても駄目なら引いてみな。すべて昔から誰かが言っている。

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2016.11.30

テナーで

大分前にフランシスから一緒にやろうとテレマンのビオラコンチェルトの楽譜を渡された(TWV 51:G9)。ビオラの代わりにガンバでやれという。確かに音域からするとテナーガンバで演奏できるが、バイオリン族とガンバ族とでは5度調弦と4度調弦の違いがある。

テレマンはそれぞれの楽器の特性をよく知ったうえで作曲している。分散和音など一見すると難しそうでも、指定された楽器では無理なく弾けるようになっている。ただそれは本来の楽器で演奏するときのこと。調弦が違うとやりにくくなるかもしれない。

とはいえやってやれないものではない。ガンバの方がビオラより弦の数が多いので開放弦を活用する機会が多くなり、運指の上では不利なことばかりではない。よし、やってみよう。

楽譜を渡されたが演奏会で演奏するわけではない。まあ仲間内で集まったときに披露することはあるかもしれないが、さし当たっての予定はない。楽しみのために少しずつ取り組み始めた。しかし素人がこれを音楽にするまでには課題がかなりある。

まずは運指の問題。弦楽器は管楽器よりも運指の選択肢が多い。それを良く考えず闇雲に音を出しても効果がない。自分のそのときの技倆に合った合理的な指使いを考える。ある音を出すのに開放弦を使うのかそれとも押さえるのか、ハイポジションでは隣り合う弦のどちらを使うか、それを一つひとつ決めて譜面に書いて、やっとフレーズとして試すことができるようになる。しばらく寝かせて試すと違う指使いの方が良くなることもある。

手間がかかるが、ガンバを始めたのが遅かった身としては当然のこと。それでも少しずつ練習していると、大分音楽として流れるようになってきた。意識して楽譜の少しだけ先を見るようにすると、指や弓の用意に余裕が出てくるし、頭の中のシナプスの働きも活発になるような気がする。

ここまで来れば、今度は弓の方に集中できる。弓があってこそ音楽に生命が吹きこまれる。複雑な逆弓が出てこないのは有り難いが、細かく刻む中で不要な所にアクセントがつかないよう、そして歌うべきところできちんと歌えるよう運弓を考える。

テレマンのこの曲は落ち着いたビオラの音色を生かしたもので、とりわけ低音弦が効果的に使われている。終止で低音に大きく飛躍することがしばしばある。その移弦をすばやく確実に行う練習を重ねる。

ある程度になったところで、プロの演奏を聞いてみた。今は様々な演奏をネットで容易く聞くことができる。古い演奏もあれば新しいグループによるものもある。その中でとりわけ印象に残ったのがブレーメンのバロックオーケストラによる演奏で、ビオラの独奏は三原朋絵さん。彼女の身体から音楽が溢れ、アンサンブルの皆が音楽を楽しんでいる様子が伝わってくる。

新しい曲に取り組んだあとで馴染みの曲に戻ってみると、前とは違う指使いを思いついた。シェンクやアーベルの曲でのハイポジションの演奏が少し楽になったような気がする。

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ものからの学び

自然を観察していれば色々な気付きがある。それと同じように人の作ったものを見ていても気付くことがある。一体、人間の作ったものにはどのような特徴があるのかしらん。

いくつもの切り口があると思うが、人の作ったものが次第に劣化することは心しておくに値するであろう。衣類や日用品、道具や機械類に始まり、家や車、船舶や飛行機、大きな建造物まで、いずれも完璧な状態でいるのはできた直後だけである。使用することによりあるいは経年変化で、劣化したり不具合が生じてくる。動くものであればどこそこすべりが悪くなる。部品点数が多く大規模なものになると、複雑なだけにどれか一つが悪くなってもたちまち本来の機能を発揮できなくなり、完全である期間は存外短い。

ではどうするのか。

資金が潤沢であれば次々に新しいものに買い替えればよいかもしれないが、普通はそうはいかない。そこで手入れが大切になる。保守をしなければ道具ものはすぐに使えなくなる。構造を理解し、こまめに清掃をして油を差したり消耗品を取り替えたりする。公共の箱物も同じ。

本来の機能を発揮していないときには、どこに不具合があるのかを順番に確認し問題箇所を修理する。それなりの工具も必要になる。自分の手に負えなければ修理の専門家に依頼する。そのままにして何とかなることはない。すぐ使える状態になければ、ときには命取りになる。一つひとつ問題点を片付けねばならない。

とはいえ、どれだけ修理保全をしたとしても物理的なものが永久に残ることはない。寿命が来たと思ったら、潔く時代に応じたものに乗り換える知恵も必要。物に拘泥しそれに捉われては本末転倒。玩物喪志となってはなるまい。

しかしここまで考えてくると、思うことがある。おや、これが当てはまるのは人の作ったものだけかしら。

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