2017.02.06

あるエッセイ

ボンヘッファーの『10年後に』というエッセイに次のような言葉がある。

愚かさは善にとって悪意よりも危険な敵である。

悪意に対しては抵抗できる。その悪意を明らかにし必要なら力を以て防ぐことができる。悪意には常にそれ自体の中に悪の兆しを蔵していて、それにより人間は少なくとも居心地の悪さを感ずる。

しかし愚かさに対しては打つ手だてがない。愚かさには抗議も力で押さえつけることも役に立たない。理性を聞く耳を持たないし、その人の偏見に反する事実は単に信ずる必要はないものとして片付けられる。

そのようなときには愚かな人間は批判的にもなる。事実に反論できなくなると、彼らはその事実を取るに足らず偶然であるとして単に脇に退けてしまう。総じて愚かな者は悪意を持つ者と違って、自己満足の塊となり激しやすく攻撃を続けて凶暴になってくる。

それ故に愚かな者に対処するときには悪意を抱く者に対するときよりもさらに注意が必要になる。愚者を理性で説き伏せようとはしないこと。意味はないし危険である。

この言葉には時代を特定できる要素は何もない。しかし彼がドイツ降伏直前の1945年4月9日に処刑されたことを知れば、その発言の背後にある時代の雰囲気を感じ取ることができる。享年39歳であった。

さて彼の発言を聞いてどうするか。救いようはないのか。我が身を守るだけなのか。

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2017.02.05

共感

どのようにしたら共感できるか。同じようなことを体験してみれば共感しやすくなる。しかし体験には限りがある。そこで知ることが大切になる。無知であってはいけない。そのうえで想像力の翼を拡げてみる。どこまで飛翔することができるか。

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2017.02.01

何を読んでいるのか

米大統領が大統領令で、中東・アフリカの7か国の国民や難民の入国を一時禁止としたことを受け、全日空と日本航空が対象の人の米国便への搭乗を原則として断る方針を決めた。

それを伝えたあるメディアに対して、苦言を呈した人がいた。このメディアには、航空会社がトランプの非人道政策に消極的に加担しているという非難のニュアンスが感じられる、もしそうなら十分な背景取材をして報道しなくては、というのである。

この人の発言に対する人々の反応が興味深い。多くの人が航空会社の対応について論じたのである。さらには、トランプのやっていることは人権侵害であるという発言もあった。

何が興味深いのか。

話は3つの層になっていると思う。まず基層に大統領令がある。その上に航空会社の対応という層がある。そしてさらにその上に報道という層がある。苦言を呈した人は報道の姿勢について論じたのであるが、多くの人々は航空会社の対応について議論を展開しそれに終始したのである。

報道姿勢を問うときには、その報道対象となっていることについて事実関係や背景を確認しなければならず、この場合であれば航空会社の対応という第2の層を調べ、さらには根本的な大統領令の当否を考えなければならない。しかし、そのような検討を終えたら再び議論の出発点となった報道姿勢の問題に戻って来る必要がある。

ところが多くの人は苦言を呈した人の真意を読み取れず、議論が発散してしまった。特に枝葉が繁っていると幹が見えなくなる。一体何を読んでいたというのか。これは床屋政談の典型例である。

話をよく聞くというのは極めて難しい。そして相手の言わんとすることに沿って議論を続けるのはもっと難しい。そのような検討を経たうえで、首尾を整えるのは最難事かもしれない。

何が論じられているのかを最初に明らかにし、その主題から逸脱せず議論を展開し、結びで最初に戻ってくるということは、論文を書くときに指導されるが、そのような態度が大切なのは学問の世界だけではない。無用の繁をなくし、ものごとを前に進め、さらには日々を静穏にするうえでも欠かせない。

とはいえ世の中はそれほど理詰めではない。早とちりと床屋政談でものごとが進められてしまう場合も多いかもしれない。そこが人間の面白さ。理性を重んじつつも、火の粉が飛んでこない距離でその現実に対処する用意が必要かもしれない。

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2017.01.31

ピラミッドを登っていくと

お便りを有難う御座いました。文面から社会の中堅にあって悩み自己を模索している貴方を感じました。読んでいて思い浮かんだのはピラミッドです。

入社したときにはその一番底辺にあり、多くの同期同輩と切磋琢磨しあい懸命に仕事をする。ある意味では楽しい時代です。しかし貴方は既にその時期を過ぎ、仕事ではかなりの責任を負うようになっている。上に仰ぎ見る先輩や上司がいるし、付いてくる後輩もできた。自分なりの見方も少しずつできるようになっている。家族に対する責任もある。ピラミッドの中ほどをよじ登っているというところかもしれませんね。

お便りから伝わるのは、仲間が少なくなっていくある種の孤独感でしょうか。もう若手といっていられない年齢でしょう。人は誰も時間が経てばこのピラミッドの上に押し上げられていきます。努力をしていればなおさらです。それと共に各自のすることは代替の利かない独自のものになって行きます。

上になるほどピラミッドの中では余地が少なくなります。話す相手もいない。そのときどうしたら良いのか。

あれこれ思うときには外を見たらどうかな。外を見ると実はピラミッドは一つではないことに気付く。見晴らしの利く所から眺めれば、貴方と同じような立場の人が外にいるのが見えます。これまでずっとお話を聞いていますが、貴方には人並み以上の何かが与えられていると感じられます。中でしっかり仕事をしているのは当然でしょうが、そこにただ身を屈するのではなく、外に優れた友人や師を探してみるのもいいかもしれません。

ある程度のところに達して、そのピラミッドの中で同類を探すのには限界が出てきたということを別の言い方にすれば、貴方は孤独であることを恐れず個である覚悟を固めるときに達したということかもしれません。夏目漱石に「私の個人主義」という講演録があるので、行ヒテ余力有ラバですが、ご覧になることをお勧めします。自己本位という言葉で自分を確立するまでの苦闘の記録です。「自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てた」という表現に漱石の感動が表れています。そのとき彼は34歳でした。

群れる必要はありません。いや高みを目指すなら群れてはいけないということかもしれません。それはどの世界も同じでしょう。並み居る人々から頭抜ける人は、実業家も作家も芸術家も、ある時点でそのような自覚に達したように思います。

どうか頑張ってください。

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2017.01.26

皆同じ

そんなに自分を責めることはない。余り恥ずる必要もない。君のしていることは他の人もしている。皆同じなのだ。

逆も然り。他の人のしていることは君もする。善きにつけ悪しきにつけね。皆同じだからだ。心せよ。

今も昔も、どこにあっても人のすることに変わりはない。

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2017.01.21

はああれか

年長者が一般論を言う。事情を知らない者には何のことかわからず、その話は右の耳から左の耳へと抜けていく。しかし当事者なら例の話だとわかる。当事者でなくとも様々な経験を積んだ者なら、何かがあると察することができる。

あの人は何故このような話をするのか。その背後にどのような事情があったのか。その動機を察することがものごとの理解を深める。

それと共に古老の一般論はそれと気付かず記憶にとどまり、将来同じような事件に遭遇したときにそのときの声が蘇ってくる。身を処すときの指針ともなれば、歴史を繙くときの役にも立つ。

個別の事情や当事者の名前に言及せず一般論で述べるには、事物の本質を的確に抽出する力が要る。それはある種の抽象的な演算である。しかしそれは誰でもいずれ身に付く。年季を入れれば自ずとわかることがある。

一般的な言い方とは、個別具体性を捨象していつの時代にもどこの地域でも通ずる普遍的な表現である。それはときにはイソップのように寓話に形を変えることもあるが、人々の叡智なのかもしれない(いつどこで誰がの先に)。

その人の指し示す事象を想像し、それと共にそこからどのような普遍を学び取るのか、そんな意識をもって年長者の話に耳を傾けてみる。あのことかと納得しながら、その先の教えを理解するつもりで。

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2017.01.15

累乗

水底の気泡はやがてぼかりと水面に浮かんでくる。思念も同じ。散歩をしながら頭の中でいろいろお浚いをする。1、2、4、8、16、32。あなたがいて、父母がいて、祖父母がいて、曽祖父母がいる。3百年10代遡ればその代のご先祖は1024人いる。

それは当たり前の話。しかしそれをどこまで自らのものとして咀嚼できるか。若いときには、「ああそう」で済ましていた。それがいつしか厳粛な事実となる。というのもそれは自己の存在理由に関わるから。何故孝養を尽くすのか、何故先祖を祀るのか。そう、1024人の1人が欠けても今のあなたは存在しないのである。

そして今から3百年すればあなたも新たな1024人の1人になる(10億の糸)。

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2017.01.09

個別と普遍をつなぐ

困った問題があり、それをすぐに解決してくれる答が欲しいことがある。そんな状況のある人が物のわかっている人に助言を求めたが、その回答は抽象的な表現で、明日また始まる現実への具体的な解決方法は得られなかったという。期待外れという訳である。

しかし助言は本当に期待外れであったのか。物のわかった人が何故そのような答えをしたのか。

それを考えることは古典が読み継がれている理由を考えることとも重なる。往時の人の生活は今とは違うことが多い。それなのに何故私たちは古人の言うことに耳を傾けるのか。遥か昔の人の言葉が今も人々に感銘を与えるのはどうしてなのか。

人は千差万別。自分が置かれているのと同じ状況は世界のどこにもない。あなたの状況にすぐ役立つ出来合いの答も存在しない。それを今すぐにと求めるのは「ハウツーもの」を漁るようなものかもしれない。聡明な人の話を聞くのは古典を読むのに通うものがあるように思う。相談をした人は、そんな意識を持ってもう少し助言の意味するところをお浚いしてみても良かったのではないか。

ではどうするか。

そのときには、一度山に登ってから降りてくるということをしてみる。個別から普遍の高みに一度登ってそこから見晴らしてみる。すると細部は異なるものの、同じような状況は至る所にあると気付く。それらに共通して当てはめることができるものを普遍という。そのうえでもう一度個別という地平に戻ってくるのである。

では普遍の高みによじ登るにはどうしたら良いのか。個別と普遍とをつなぐものは何か。

それは究極的には自ら考えるということかもしれない。その考えるという中味をさらに解きほぐせば、個別具体の中にあって個別具体を超えいつでもどこでも通用する結晶を抽出するということである。それが普遍である。

そのためには
(1)自分から距離を置いて第三者として今の状況を記述してみる。そのとき記述から個別性を取り除き一般的な表現にしてみる。固有名詞を普通名詞に置き換えるのである。これが普遍化の基本になる。
(2)或いは違うものと比較してみるのもいいかもしれない。現象として違うものの中に同じものを見つけるには普遍化・抽象化の能力がいる。

困っているときに貰った助言とは、この普遍の峰に登るときの手助けであった可能性がある。古典が読み継がれるのも、そこに普遍化できる様々な要素があるからである。

さて山から下りたら、今の自分の問題を考える。個別具体的な自分の状況にぴたりと合う解決策を見つけるのは、あなたにしかできない。けれども山頂から四方を眺めた経験はきっと役に立つはずである。手の中にはそのときの結晶がある。

少し観点が違うが以前にも同じようなことを言っていた(具体と抽象の往復 普遍となるもの)。

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2017.01.04

少ない縁

何かのきっかけで誰かと接したとする。その人はあなたのしている仕事にはつながらない人かもしれない。高名な人や重要人物でもない、どこにでもいるごく普通の人かもしれない。しかし接しているときには気持ちをその人にすべて傾ける。

その偶然の出会いについてはすぐに忘れるかもしれない。けれどもそうしてできた縁は、大量生産され棚に並んでいる商品とは違う。その縁を簡単に取り替えたり捨てたりすることはできない。先ばかり見ていると、今自分が接している人が棚に並ぶたくさんの商品のように思えてしまう。しかしそれは違う。

何故か。それはその出会いとつながりは、あなたの時間、つまりはあなたの生命を費やして取り結ぶことのできた、かけがえのない関わりであるから。偶々と思えても、その向こうに自分でも気付かない意思が働いているかもしれないし、天の配剤があるかもしれない。

そして偶々の数少ない縁も大切にしていれば深くなる。時にはこちらから働きかける。今日はというだけでもいい。長い時間が積み重なればそれ自体が価値となり、そこから多くを学ぶかもしれない。結び付きを数多くするのも一つの方法かもしれないが、それでは一つ一つのつながりを大切にする時間が取れなくなる。数に拘泥することはないし、ましてそれを他と比較する必要もない。数は少なくとも生じた縁を生かす。いまここで、その人に全力を傾注する。

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2016.12.30

どうするか

羊の群れに狼がきた。私もここに入れてください。皆さんと一緒に暮らしたいのです。やさしい羊たちは彼を受け入れた。しかしその後ときどき羊がいなくなるということが起きるようになった。

さあどうする。

軽井沢の熊を思い出した。熊が人里に出没してゴミを漁るのである。

町では駆除という選択はしなかった。その替わりに熊の食性や行動範囲などの生態をよく調べ、熊対策のゴミ箱を設置するようになった。手先が器用で力の強い熊でも開けられない。そのうえで住民にはゴミの分別ルールとゴミ出し時間の厳守を依頼した。

人間のルールを知らない熊さんと共存するには、それなりのことをしなくてはならない。

ここから学ぶのは
(1)その生態や行動様式を知ること
(2)堅固な備えをすること
(3)自らを厳しく律すること

羊も狼も概念を拡げれば同じ動物として括られるが、細かく見れば別種の動物である。同じでも違うということを意識しないで接触すれば問題が出てくる。

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2016.12.29

逆からの発想

これだけしかないと思い詰めてしまわないためにはどうするか。八方塞りとならないようにして新たな発想を得るにはどのような工夫をすれば良いのか。

ただ「考えよ」と言うだけでは助けにならない。考えるときの助けとなるものはないのか。

行き詰まっているときに、リラックスしたらと言われる。確かに緊張を解き寛いでいると新たな思いつきが浮かんでくることがある。しかし寛いでいるとき頭の中でどのような働きがあってエウレカと叫ぶことになるのか。それを知りたい。

発想法についてはいろいろな人が書いている。情報を集めて整理すると何か思いつくと言う。しかし収集と整理をするだけでは、集めた情報の枠内に極限されてしまう可能性がある。今ある枠を超えて思いつきの能力を高めるにはどうしたら良いのか。それを知ることは創造性につながる。

発想を豊かにする一つの工夫は比較である。昔やった同業他社比較や、前年比、過去5年の推移の観察などはこれに該当する。さらに、家郷・故国を離れて外に出てみると気付きがあるというのも、比較の視座を得るからこそである。ただこれも実は既存のものに制約されている。

そこで縦横、内外、上下、前後、+-、過去未来などを入れ替えてみたらどうか。これは比較ではない。逆から考えるのである。それが新たな発想を得るときに役立つかもしれない。

例えば朝都心に向かう電車を待っている。既に満員。ではこのプラットフォームで回れ右をして逆方向の電車に乗ったらどうなるのか。

外から内に何かが入ってくる。それは外から押してくるのか、内で引いているのか。そこまでは誰もが考える。それをもう一歩進め、逆に内から外に出してみたらどうなるのかと想像してみる。すると色々なことが新たに考えられる。

内国法人・外国法人、国内投資・国外投資を組み合わせれば4つの事例ができる。税務の仕事をしているときに、事案がこの種のマトリクスのどれに該当するのかをまず見極める必要があった。その体験が逆からの発想の出発点かもしれない。

随分前のロボコンで、ロボットが何種類かの動作を行ってから、ある品物を所定の位置(自分の陣地)に取り込むという課題が与えられた。それを参加している各国学生混成の2チームずつで競うのである。

各チームは課題の品物を自陣に如何に早く取り込むかに腐心していたが、アフリカ系の少年がある策を考え出した。自分の所に物を運ぶ前に、まず相手方の陣地の口を塞いでしまうというのである。なるほどね、舌を巻いた。

犬が西向きゃ尻尾は東。押しても駄目なら引いてみな。すべて昔から誰かが言っている。

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2016.11.30

テナーで

大分前にフランシスから一緒にやろうとテレマンのビオラコンチェルトの楽譜を渡された(TWV 51:G9)。ビオラの代わりにガンバでやれという。確かに音域からするとテナーガンバで演奏できるが、バイオリン族とガンバ族とでは5度調弦と4度調弦の違いがある。

テレマンはそれぞれの楽器の特性をよく知ったうえで作曲している。分散和音など一見すると難しそうでも、指定された楽器では無理なく弾けるようになっている。ただそれは本来の楽器で演奏するときのこと。調弦が違うとやりにくくなるかもしれない。

とはいえやってやれないものではない。ガンバの方がビオラより弦の数が多いので開放弦を活用する機会が多くなり、運指の上では不利なことばかりではない。よし、やってみよう。

楽譜を渡されたが演奏会で演奏するわけではない。まあ仲間内で集まったときに披露することはあるかもしれないが、さし当たっての予定はない。楽しみのために少しずつ取り組み始めた。しかし素人がこれを音楽にするまでには課題がかなりある。

まずは運指の問題。弦楽器は管楽器よりも運指の選択肢が多い。それを良く考えず闇雲に音を出しても効果がない。自分のそのときの技倆に合った合理的な指使いを考える。ある音を出すのに開放弦を使うのかそれとも押さえるのか、ハイポジションでは隣り合う弦のどちらを使うか、それを一つひとつ決めて譜面に書いて、やっとフレーズとして試すことができるようになる。しばらく寝かせて試すと違う指使いの方が良くなることもある。

手間がかかるが、ガンバを始めたのが遅かった身としては当然のこと。それでも少しずつ練習していると、大分音楽として流れるようになってきた。意識して楽譜の少しだけ先を見るようにすると、指や弓の用意に余裕が出てくるし、頭の中のシナプスの働きも活発になるような気がする。

ここまで来れば、今度は弓の方に集中できる。弓があってこそ音楽に生命が吹きこまれる。複雑な逆弓が出てこないのは有り難いが、細かく刻む中で不要な所にアクセントがつかないよう、そして歌うべきところできちんと歌えるよう運弓を考える。

テレマンのこの曲は落ち着いたビオラの音色を生かしたもので、とりわけ低音弦が効果的に使われている。終止で低音に大きく飛躍することがしばしばある。その移弦をすばやく確実に行う練習を重ねる。

ある程度になったところで、プロの演奏を聞いてみた。今は様々な演奏をネットで容易く聞くことができる。古い演奏もあれば新しいグループによるものもある。その中でとりわけ印象に残ったのがブレーメンのバロックオーケストラによる演奏で、ビオラの独奏は三原朋絵さん。彼女の身体から音楽が溢れ、アンサンブルの皆が音楽を楽しんでいる様子が伝わってくる。

新しい曲に取り組んだあとで馴染みの曲に戻ってみると、前とは違う指使いを思いついた。シェンクやアーベルの曲でのハイポジションの演奏が少し楽になったような気がする。

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ものからの学び

自然を観察していれば色々な気付きがある。それと同じように人の作ったものを見ていても気付くことがある。一体、人間の作ったものにはどのような特徴があるのかしらん。

いくつもの切り口があると思うが、人の作ったものが次第に劣化することは心しておくに値するであろう。衣類や日用品、道具や機械類に始まり、家や車、船舶や飛行機、大きな建造物まで、いずれも完璧な状態でいるのはできた直後だけである。使用することによりあるいは経年変化で、劣化したり不具合が生じてくる。動くものであればどこそこすべりが悪くなる。部品点数が多く大規模なものになると、複雑なだけにどれか一つが悪くなってもたちまち本来の機能を発揮できなくなり、完全である期間は存外短い。

ではどうするのか。

資金が潤沢であれば次々に新しいものに買い替えればよいかもしれないが、普通はそうはいかない。そこで手入れが大切になる。保守をしなければ道具ものはすぐに使えなくなる。構造を理解し、こまめに清掃をして油を差したり消耗品を取り替えたりする。公共の箱物も同じ。

本来の機能を発揮していないときには、どこに不具合があるのかを順番に確認し問題箇所を修理する。それなりの工具も必要になる。自分の手に負えなければ修理の専門家に依頼する。そのままにして何とかなることはない。すぐ使える状態になければ、ときには命取りになる。一つひとつ問題点を片付けねばならない。

とはいえ、どれだけ修理保全をしたとしても物理的なものが永久に残ることはない。寿命が来たと思ったら、潔く時代に応じたものに乗り換える知恵も必要。物に拘泥しそれに捉われては本末転倒。玩物喪志となってはなるまい。

しかしここまで考えてくると、思うことがある。おや、これが当てはまるのは人の作ったものだけかしら。

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2016.11.28

品位

カストロ前国家評議会議長の死去を受けて、アメリカのオバマ大統領が26日哀悼の意を示したという。

「キューバの国と国民の針路を変えたカストロ氏の死去は、さまざまな思いで受け止められているはずである。国民に及ぼしたとてつもない影響は歴史が評価するだろう」とし、そのうえで「アメリカとキューバは60年近く対立してきたが、私の政権は両国が協力できる未来に向けて取り組んできた。キューバの人たちは、アメリカに友人がいることを知ってほしい」として、去年7月の両国の国交正常化を受け、関係改善の流れが続くことに期待を示したとのこと。

これに対してトランプ次期大統領は、「残虐な独裁者が死去した。キューバ国民が自由を得られるよう全力をあげる」とする声明を発表したという。

この報道に接し、阿川弘之氏が紹介してくださっているエピソードを思い出した(大人の見識)。アメリカのルーズベルト大統領が1945年4月12日に死去したときの交戦国日本とドイツの指導者の対応である。

ルーズベルトの死に対し、就任直後の鈴木貫太郎首相は同盟通信を通じて、彼の政治的功績を認め「深い哀悼の意をアメリカ国民に送る」との声明を出した。またルーズベルト夫人にも丁寧な哀悼の意を表した親書を送っている。ニューヨーク・タイムズは、この話をJAPANESE PREMIER VOICES "SYMPATHY" という見出しで報じた。

他方、この報に接してヒトラーは、国内向けのラジオ放送で「神が歴史上最大の戦争犯罪人ルーズベルトをこの地上より遠ざけた」という声明を出したという。

スイスのバーゼル報知の主筆は、「敵国元首の死に哀悼の意を捧げた日本の首相は眞に立派である。これこそ日本武士道精神の発露であろう。ヒトラーがこの偉大な指導者の死に際してすら誹謗の言葉を浴びせて恥じなかったのとは、何という大きな相違か」と社説に発表した。

アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンは英国BBCを通しドイツ国民に向け次のように語った。「日本はアメリカと生死を賭けた戦争をしているが、あの東方の国には騎士道精神と人間の品位に対する感覚が、死と偉大性に対する畏敬が、まだ存在する。これがドイツと違うところである」と。

これは歴史の相似か。

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2016.11.27

アンサンブル

岬の突先にあるヒルデガルトの家に招かれ、久し振りのリコーダーのアンサンブル。海を一望する部屋が音楽室になっている。

皆そこそこに初見もきく。ただポリフォニーには慣れていないようで小節をまたがったり裏拍が続くとやや苦戦するところがある。それでもルネサンスから初期バロック、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハまで色々な曲を演奏することができた。

最後にバードのウィロビー卿のご帰還の楽譜を配る。元はフィッツウィリアム・ヴァージナル・ブックにある鍵盤曲で、ダウランドのリュート版もある。それをオリエルでリコーダー用にしたもの。変奏ごとに主題を受け持つパートが交替し、ほかのパートが分散和音を奏する。

比較的易しくそれでいて皆が演奏を楽しめるので、締めくくりに使うと達成感を持ってアンサンブルを終えることができる。そうすることで皆がまた集まりたいという気持ちになる。

終わって旦那のイブ・マリーも加わり皆で食事。彼は楽器の演奏はしないがコーラスで歌っている。食卓ではさまざまな音楽グループの話になる。皆どこかでつながっている。そしてどの団体にもそれぞれ悩みがある。先日バイオリンのジョエルが来たときにも同じような話をしていた。まあそこが人間らしいところ。

彼らの家を辞去して戻ったら既に深夜となっていた。

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2016.11.22

集中する

「Aですか」という問いには、「はいAです」と答えるか「いいえAではありません」と返すのが普通である。

ところが「いいえBではありません」という返事がときどき出てくる。話が複雑になってくるとこれが起きても気が付かない場合がある。その結果として議論が別の方向に流れてしまう。

ブレインストーミングでさまざまな可能性を探る段階では、「いいえBではありません」も役立つかもしれない。しかし議論を収束させ筋道立てて考えるときには、このような論理の混濁を排しておかねばならない。

それでは問いに答えていない。余分な話をしているのである。場合によっては答える者の意識の那辺にありやが透けて見えてしまうということになる。

まずはAに集中してそれを片付けてから次に進む。BやC、XYZの話はそのあとの問題である。

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2016.11.12

治癒を待つ

背中が凝るとてマダム・アルテューが来た。前日マダム・ルカシェールが同じようにして来たが、彼女にこちらのことを聞いたようである。聞いてみれば本村に上っていく右側の家に住んでいて、あのクララの祖母となる女性である。ああそうだったのですか。

肩や背中を揉んでいると気分もほぐれて、少しずつ話が始まる。クララはもう18歳になっているという。

マダム・アルテューは物理療法は手間がかかるわりに当てにならないともこぼす。まあそれは対症療法であって、自分の身体が治してくれるときのあくまで手助けかもしれませんね、そう答える。こうやって揉んでいるのも物理療法と同じこと、いやもっと原始的なのね。ただ、手を当てられていると段々身体が暖かくなってくるでしょう。気持ちも楽になるしね。

彼女と話をしているうちにふと疑問が生じた。医療とはどのようなものなのか、薬は病を治すのかと。病気を本当に治しているものは何であるのか。

風邪をひいたときには薬を飲む。早く治るようにと。しかし本当に早く治るのかしらん。早く治したいのは当然だが、風邪で気分が優れないのは身体が休息したいと訴えているからではないか。そのときは身体の言うことを聞いて、治るまで待つ方がいいのではないか。

薬を飲んで強制的に熱を抑え痛みを感じないようにして、混雑した通勤電車に乗り込む意義があるのかな。薬を飲むのは対象療法。根本の治癒は身体がしてくれる。疲れたら早めに休む。熱があるなら休養して回復を待つ。昔から皆が言っている当たり前の話に真理があるように思う。

現代医学が多くの人を救っていることは間違いない。しかし生き物の身体には治癒の力が備わっている。病を強引に捻じ伏せるのではなく、身体の訴える声を聞き自然の治癒に任せるという知恵を私たちは忘れかけているような気がする。

マダム・アルテューの手は、長年働いてきた農婦のことゆえ節くれだっている。その手が冷えていた。これでは長く家族を支えた尊い手がかわいそう、暖かにしてあげなくては。ほら、こうやって手を握ったり腕をさすったりして血行を良くすると指先がぽかぽかしてくるでしょう。肩も回しておきましょう。あとでぐっすり寝られますよ。

しばらくすると彼女の顔色が赤みを帯び、手も暖かになってきた。彼女の家の数年前の悲しい出来事も聞こえている。何らかの助けになれるのは何より。彼女はお礼にと卵をいくつも持ってきてくれた。人々とのやり取りが日々を彩ってくれる。

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2016.11.07

ゼミあれこれ

教養学部のゼミは必修ではなかった。参加してもしなくとも構わない。何を選んでもよい。これから進学する学部に関係するゼミを選んでもいいし、純粋に自分が興味を持っている科目を選ぶこともできた。

初めて参加するゼミは、コーザーの書いた「知識人と社会」を読むという岩永さんのゼミであった。希望者が多く参加希望の理由を書面で提出する必要がある。無事に参加できることになったがゼミの初回は緊張した。漱石はロンドン留学の最初の頃の気持ちを「御殿場の兎が急に日本橋の真中へ抛り出されたような心持ちであった」と書いたが、こちらは正真正銘の御殿場の兎である。

もう一つ、岩波の日本思想大系の「国学運動の思想」の巻にある文書を読む長尾さんのゼミ(こちらは単位認定のないものであった)にも参加した。できて間もない八王子のセミナーハウスにそのゼミで行った覚えがある。

その年の後期には古文書学のゼミを選択した。教えてくださるのは史料編纂所の教授であられた土田先生で、その直鎮というお名前が古風に感じられた。お目にかかれば太い眉の森の熊さんのような印象で、実際の調査で得た古文書のコピーを配布されて読み方を丁寧に教授してくださった。有名な土田兄弟のお一人であると知ったのは随分後のことである。古文書を解読するのが面白く次の期にもゼミを続けた。

古文書学には語学に通うものがある。書かれているものの内容を理解するには、まず文字が読め文法がわからなければならない。その手段を習得するという点で似ていると思うのである。古文書や外国語を読み解いて初めて、その文書が作られた目的、或いはそこに盛り込まれている人々のものの考え方や社会制度、大きくいえば人間を知ることができる。その手ほどきをしていただいたのである。

次の年は吾妻鏡を読むゼミに参加した。まだ助教授でいらした石井進さんが吾妻鏡のテキストを配布され、それを学生たちがまず読み、次いで先生が注釈をされるのである。ゼミには院生も加わっていて、その人たちが非常に優秀に思えた。

記憶にあるのは、吾妻鏡に出てくる渋谷という一族が相模の有力氏族であり、東京の渋谷という地名もそれに由来しているということ。その渋谷氏が後に薩摩に移住したと知り、それぞれの土地に長らく固定しているとばかり思っていた昔の人も、実は大きく移動していることに意外の感を持った。人は人が想像している以上に世界中を移動している。そのことが後年になりわかってきたが、そのような理解を得る出発点にこの意外感があるかもしれない。

戦国の一乗谷朝倉氏の遺構の発掘について初めて聞いたのも石井先生を通じてであったが、物を知らない若者にはその当時の大ニュースも猫に小判のようなもの。しかし一乗谷、朝倉氏の名前だけは記憶に残った。ずっと後に福井に実査に行った折りに、そこを訪ねることにしたのは先生のおかげである。遺構を歩き資料館を見てその規模に驚いた覚えがある。

今となれば参加したゼミの内容は微かな記憶のみになってしまったが、いずれのゼミもずっと後になって自覚的な関心がそちらに向くときの目に見えない助けになっているような気がする。それは軟弱な地盤にコンクリートパイルを打ち込み基礎を固める作業のようなものである。コンクリートパイルは地表に出て来ないが、その上に作られる構築物を支えている。

基礎を支えるというだけではない。若いときの経験が思わぬところにつながることもある。岩永さんの講義でトクヴィルについて聞いたことがあるが、その人物ゆかりの城で演奏をすることになろうとは思っていなかった。ボドリアン図書館では古文書学を取ったことを申告して稀覯書閲覧の資格を得ることができた。また長尾さんのゼミで触発された日本の政治思想史への関心が後年復活し、外で勉強することとなったのも予想外のことであった。

すべてはつながっている。若い頃に学ぶのは単なる通過儀礼ではない。物理や化学の教科書に書かれていることも何かの折に蘇って助けとなる。活用する意思さえあれば無駄なものは何もない。それが学問をすることの妙であり生きていく面白さかもしれない。

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2016.10.22

言葉の示すものが違うとき

Pacta sunt servandaというラテンの法諺を知ったのは寺沢さんの国際法の講義であったと思う。約束は守らなければならないということ。この概念は主に国際法および契約法で用いられる。

ある人が何かを約束する。他の人はその人の約束を前提にして予定を立てる。それは国も個人も同じ。契約上の約束が果たされなければ経済的な損害が生ずる。個人的な約束であっても同じこと。宴席に来ると言った人が来なければ用意した食事はどうなるか。言行が一致することで社会が円滑に運営される。このように考えれば、この概念は国際法および契約法にとどまらずもっと広く人間社会全般で受け入れられているものの考え方と言うことができよう。

しかしその一方で事情変更の原則 Clausula rebus sic stantibus というのもある。約束をしたときの前提となっていた事情が大きく変わった場合、その約束を修正しあるいは約束を反故にすることも認められるという原則である。

一方で約束は守らなければならないとしながら、他方でそれを反故にすることもできるというのは、お互いに矛盾することを言っているように感ずる。しかしどちらの主張も現実の社会では成り立っている。

とはいえ原則として約束を守らねばならないことは、契約に損害賠償などの違約条項があることからもわかる。そのような条項で言行一致を担保しているのである。事情変更の原則が認められるのは、天災その他の不可抗力、個人に関わることであれば冠婚葬祭や健康のような例外的な場合にとどめなければならないであろう。

それでは両者の均衡はどの辺りにあるのか。時代や地域を超えて普遍的な均衡点は見つけられるものなのか。

外で暮らしていると、約束を守るということについて、自分の身の内にあるものと周囲の人々の抱いているものとが異なるような経験をよくする。いや外で暮らさずとも、内外の人の往来が盛んになれば、内にいても自ずと経験するようになる。二つの相対立する概念の均衡点が社会によりかなり異なるのである。とすれば、今のご時勢で合意がどこまで拘束力を持つかを考えるときには、これを世界の文脈に置いてみる必要があるということになる。

日本では、約束は守るということは早くから教えられる。古典を紐解けば色々な事例が見つかる。たとえば「菊花の約」の話。上田秋成の『雨月物語』にあるこの話は、信義を重んじ自らの生命を絶ってまで約束と守った話である。明代の白話小説『古今小説』に拠り、秋成はそれを自らの中で翻案した。

佐藤春夫や谷崎潤一郎はこの一編を高く評価したという。そこに称揚されている倫理は武士のものだけではなく、「約束を破ったら、万座の中でお笑いくださるべく候」という江戸時代の商人仲間の職業倫理にも通ずるし、広く日本人に共有されている感覚であろう。

しかし外にいるとこれとは対極の、前言を翻すことを全く意に介さないというような事例を色々経験する。

いい例が時間の観念である。日本の社会は5分前精神や定時・定点・必達の考え方がこれまでは基本であった。しかし世界的に見るとそれは例外かもしれない。定刻といってもその5分後のこともあるし、15分後のこともある。ケセラセラ、ポレポレ精神の横溢している国もある(一事が万事)。

交差点での信号にもお国ぶりが出てくる。青が進めで赤は止まれというのは万国共通かもしれないが、黄色については差が出てくる。日本では、信号が黄色のときは停止位置をこえて進行してはならないが、黄色になったとき停止位置に近くて安全に停止できない場合を除く、そう道路交通法の施行令にある。

世界的に見れば、国によって「安全に停止できるなら停止」とするところもあるし、「安全に通り抜けられるなら進め」という逆の決め方をしているところもあるという。ラテン気質の国で車を運転していて信号が黄色になったときは、注意をしていないと後続車に追突されるかもしれない。

約を違えた理由を尋ねれば、まあよくもこれだけと驚くほどに屁理屈を並べ立てる。これを聞いていると、約束を作り上げている言葉の重みやその指し示すものにお国ぶりを感じ、言葉の裏づけとなる人々の行動様式を考えることになる。

史記に張儀の話がある。楚の宰相の宴席で璧が紛失したとき、縦横家の張儀が貧しいが故に疑われ笞打たれた。妻から「碌でもない読書や遊説をしなければこんな恥辱は受けずに済んだ」と言われ、張儀は「俺の舌はまだあるか」と聞いた。妻が「舌はございます」と答えると「それで十分だ」と言ったという。

舌先三寸のみで世を渡る人々は今も世界各地にいる。通訳捜査官が活写したような、喧嘩腰の早口で威圧するかと思えば荒唐無稽な弁舌で責任転嫁をする人々がいる。無料とあればすべて持ち去る手合いがいる。古くは休戦協定を守らず、最近では「最終かつ不可逆的な決着」という合意を平然と無にするという事例もある。

約束を守ることを重視する社会もあれば、そうでない社会もあるという事実は、約束という言葉に限らず言葉の意味するところが社会により異なると表現してもよいかもしれない。言葉に信を置かない人や社会はいくらでもある。

ではどうするか。

個人が自らの均衡点をどこに見出すかはその人次第で、自らが満足し周囲と調和できればそれで良かろう。

しかし異文化に接し何らかの交渉が生ずるときには、自分の生い育ったものの考え方で相手も行動していると思って対応してはいけない。長期的には信義誠実であることが皆からの敬意を受けるかもしれないが、そのような人間ばかりではない。目先の利益を追求し折りあらばと他人の隙を伺う輩もいる国際社会で交渉ごとに当たる者は、マフィア同士の人質交換のような徹底的に非情な行動様式も身に付ける必要があるのではないか(愛も友情も不要)。

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2016.10.08

作り直し

対訳辞書を誤って消してしまった。一日の仕事を終えて電源を落とすときに白紙で上書きしてしまったのである。気が付いたのは翌朝パソコンを立ち上げたとき。単なる対訳ではなく、処理の順番や場合分けに工夫をし、様々な正規表現を組み込んでいたので、回復できないとわかったときは途方にくれた。バックアップを取っておかなかったのが不覚であった。

さてどうするか。嘆いても仕方ない。一から作り直す。

大枠は頭に入っている。それを思い出しながら一つずつ復元作業をする。復元とはいっても、そっくり同じにはならない。作業をしていると前の考え方とは違うところが出てくる。それが人間の手作業のいいところ。これまで表から考えていたが、裏から考える方が簡単にできるのではないかというような知恵も出てくる。処理の順番や場合分けも整理して簡明になった。案件に応じた訳語の切り替えの工夫も思いついた。

昨日の朝はどうなるかと思ったが結局復元は一日でできた。そのうえ出来上がった対訳辞書は以前のものよりすっきりして使い勝手が向上したものになっていた。バックアップも忘れず取った。作り直しにはそれなりの効用がある。案ずるより手を動かすに如かずということか。

このようなことはときどき起きる。そういえば以前にも似たような経験してそれを記録に残していたが(前に進む)、なかなか失敗に学べない。神沢杜口や森銑三翁を思い出したのも同じで、その意味では人間の行動様式は変わらないものとも思う。

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