2018.01.12

同じようで違う

バッハの復活祭オラトリオには縦横の笛が活躍する美しいアリアがある。トラベルソが登場するのは"Seele, deine Spezereien"である。ヘレベッヘのコレギウム・ヴォカーレの演奏を聴いていて、これを無性に演奏したくなった。

幸いにいいソプラノがいる。昨年パーセルのディドとエネアスで主役を歌った女性。コンソートソングに関心を持っているのでまずそちらで気心を知ったうえで、いずれこれをやろうと持ちかけることを目論んで少しずつ練習をしている。

練習をしていると高い音域の半音階の音程を正確にとるのが難しい。しかも使う笛によって歌口の巻き込み具合が微妙に違うし指使いを変える必要もある。あれこれ試してどの笛を使うかを決め、それに合わせた息の吹き込み角度や指使いを確認し、それを楽譜に書き込む。そしてまた練習をするということを繰り返している。

そのうちに気付いた。これは「同じように見えても違う、違うようで同じ」という例のおまじないの一つのバリエーションであると。今回はその中でも前段のお話である。

笛を選ぶときはいくつも試してみてその中で自分に一番合ったものを選ぶ。プラスチックのリコーダーでも射出成型の具合が微妙に違うので、多くの人がいくつもの笛を試奏している。まして製作者に作ってもらったものはそれぞれに個性がはっきりしている。ロッテンブルク、ブレッサン、グレンザー、ステインズビーJrなど、モデルにしたオリジナルの楽器の形状で音の出方に違いがある。素材が黒檀なのか、グレナディラなのか、ツゲなのかで管体の鳴りも違う。

それに加えてそれぞれの製作者により持っているリーマーが違う。それで管の内側を削るのであるが、単純な円錐形に見えるリーマーも微妙に動きながらすぼまっている。指孔の間隔、その穴のアンダーカットなども違っている。同じ製作者が同じモデルを同じようにして作ってもまったく同じものはできないであろう。

つまり、トラベルソならどれも同じと考えてはならないということ。様々ある個別の楽器の状況を見極めてどのように対処するかを一つずつ決めていかねばならないのである。これらの課題を克服したところで初めて、弘法筆を選ばず、という話になる。

笛の話だけではない、人間についても、文化についても一括りにする発想から抜け出すのは難しい。画一化への戒めとなった。

(このコレギウム・ヴォカーレの演奏はなかなかのテンポでまだ追いつけないが、他の演奏ならほぼ合わせられるところまできた。もう少し。)

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2018.01.10

どちらが早いか

学術団体の運営に関する文書を訳して欲しいという。生憎古い文書をスキャンしたPDFしかない。それをOCRで読み取らせテキスト化しても文字化けがはなはだしい。さあどうしたものか。

二つの方法がある。原始的に印刷原稿を横に置いて手作業でやるという方法と、文字化けを修正して機械に掛けるやり方である。普段は手作業を優先するが、今回は文字化け修正後に翻訳メモリを使う方法を選んだ。

その理由は分量にある。数枚の文書であれば手作業の方が早い。しかしこれは相当の分量がある。大きな文書では用語や表現の統一を目で追っていては見落としが生ずる。機械にかければ構造解析や用語集も使える。準備に少し時間がかかるが、後の作業効率を考えて機械を使うことにした。

まずレイアウトを再現し、そのうえで文字化けを直していく。面倒なようであるが、そのうちにOCRの読み取り誤りにも一定の法則があることに気付く。それがわかれば正規表現を使って同じような読み取りの間違いを一括して修正することができる。

2日がかりであったが漸く準備ができ、きれいな原文の文書が再現できた。これで翻訳に取り掛かれる。

手作業にするか機械を使うか。手作業ならあまり準備はいらないが、実際にやりだすと時間がかかる。これに対して機械を使うにはその準備に時間を要するが、実際の作業での能率は上がる。どちらにするかを判断するときの基準はその分量である。

数式にすれば、手作業は(小さな準備+大きな作業負荷/単位)であり、機械は(大きな準備+小さな作業負荷/単位)である。

手作業  準備 10分 + 5分 x 100単位 = 510分
機械作業 準備100分 + 1分 x 100単位 = 200分

財務分析に固定費と変動費という考え方があるが、それと同じ考えである。両方合わせて時間なり労賃がどのくらい掛かるかを考えてみたのである。

以上はどちらが早いかという、分量と時間の関係を考えての結論である。ただ別の価値観もある。手作りには時間がかかり拙いかもしれないが喜びがある。機械は効率が良いがきれいすぎるところも出てくる。どちらにするかはその人次第。時間のある人は自分でやってみるのもいい。

そして手作業か機械かという選択の問題は、素人と専門家の問題でも生ずる。素人でも自分でやっていれば楽しい。それも良し。他方で専門家は同じことを反復しながら知識を蓄え技倆を向上させ、磨かれた芸にしている。どちらになるかは状況によるし、その人の価値観による。

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2018.01.05

考えよと言われても

他人の情報の受け売りをせず自分で考えなさいと言われる。思考力が大切であると強調される。しかしそう言われても困ってしまうことがある。「考える」とはそもそもどんなことなのかしら。考えるということ自体を考えてみる。

ある辞書では、考えるとは「知識や経験などに基づいて筋道を立てて頭を働かせること」と説明していた。しかしこれは考えることの一部に過ぎず、しかも考えるという行為のうちでは後の段階に位置するもののように感ぜられる。

この辞書の定義は、何らかの疑問なり質問なりが与えられそこから答えを導き出す過程を説明するもので、それは問題解決型の思考と表現してもいい。これを (a) としておく。

しかしその前に、(b) 質問を組み立てて問いを発するという行為がある。さらに遡れば、(c) 何かに着目するという行為があり、考えるとはそのすべてを含むのではないかしらん。

少し切り口を変えて、私たちの世界を3つに分けてみる。知っている世界、知らない世界、気付かない世界である。

(i) 知っている世界については、何か聞かれても「それはこのようなことです」と答えられる。知っているとは、それを自分で経験していたり知識があるということである。

(ii) 知らない世界については、何か尋ねられたとき「知りません」と答える。そう答えられるのは、そのような世界があることはひとまず知っており、単に自分の経験や知識の範囲内にないので聞かれても自分では今答えられないと知っているからである。機転の利く人なら「調べてお答えします」または「考えてあとでご説明します」というような返事をするであろう。

(iii) 前の2つと対比すると、気付かない世界は一番難しい。そもそもそのような世界があることすらわかっていないのであるから、何か聞かれても「ええっ」と驚くしかない。尋ねられて初めて意識にのぼる世界で、その人の中では新大陸である。

前に見た (a) (b) (c) の過程をこの (i) (ii) (iii) と対比すると何か気が付くのではないか。

まず、問題解決型の思考(a)は知っている世界(i)と親和性がある。次に、質問を組み立てて問いを発する(b)というのは知らない世界(ii)に対して有効である。さらに着目(c)とは気付き(iii)そのものである。

つまり(a)-(i)、(b)-(ii)、(c)-(iii) というように、「考える」に当たっての3つの段階と私たちを取り巻く世界の三重構造とが綺麗に対応しているのである。

(思考の展開の順番を考えると、考えるという行為は上記説明を逆順にして、まず(1)何らかの対象に着目し、(2)着目した対象についての疑問を質問の形にして発し、そして(3)その質問への回答を提示するという順番になるかもしれない。)

勿論、思考の中でどれを得意とするかは個人差がある。これまで誰も気付かなかったものごとに初めて着目する人(新奇なものを好む人は未知の対象を発見しやすい)もいれば、その対象について「おや」と疑問を感じてそこから事物の本質を衝く質問を繰り出すことに長けている人もいる。そして与えられた問題に対し鮮やかな解法を披露する問題解決型の人もいる。

ただ自分がいずれに属するのかは別として、大切なのは、「考える」とは問題解決型の論理展開の部分だけではないと意識することである。意識にのぼりにくいものごとに着目すること、そこから本質的な鋭い質問を発することにも意を用いる必要がありそうである。適切な問いを立てるのは難しいし、新たな気付きを得るのはこれまでの思考の枠の外に出ることであって、もっと難しくなる。それができるのは天与の才かもしれないが、訓練の余地もあるように思う。

「考える」とはどのようなことか。何に注目し、それにどのような問いを立て、その問いにどのように答えるのか。そのすべての過程が「考える」ことを構成しているような気がする。

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2018.01.02

デジタル資産の行方

デジタル資産はどこに行くのか。人々が残すデジタル資産について、ラジオで採り上げていた(My Digital Legacy)。

古くから人のしている活動は絵や文書、写真、映像などに残されてきたが、これまでそのような記録は物理的な存在であった。ところが今はその多くが電子化され、直接手で触れることはできないものになってきている。しかもそのようなデジタル資産は自分や組織のコンピュータの中だけではなく、インターネットの世界にも蓄積されていく。最近のソーシャルメディアには人々の行動や発言が膨大な記録となり共有されている。

しかし、そのような記録は本当に資産なのか。もし資産であるならそれをどのように残していくのか。それをラジオで話し合っていた。

インターネットに残されている記録はデジタル資産と言われるが、それは本当に資産なのか。このような質問が発せられるのは、ネットの中に残るものに、まだ手触り感がないからであろう。ラジオで識者は、デジタル資産には、金銭的な価値を持つものと、人々の気持ちの上で大切と思うものがあるとしていた。前者はネットで購入した書籍や音楽などであり、後者は写真や私的なメールのやり取りや文章であるというのである。

この議論は一見すると説得的ともいえるが、ことさらにデジタルを強調しているように見える。資産とは何かをまず定義し、そのうえでその資産性がデジタルという要素によって変化するのかを考えるのがいいように思う。

資産とは本来会計の用語であるが、資産とは価値あるものを考えると、それには金銭的な価値のあるもの、感情に訴えかける価値のあるものだけではなく、歴史的価値、学術的価値、共同体結合の価値、その他いろいろな価値のある資産を挙げることができる。

そのうえで資産がデジタルになっているときにその資産性が変わるのかを考える。すると、手に触れらなくとも価値を減ずることのないものがあると気付く。電子データは物理的に存在するデータに比較すれば瞬時に消え失せる可能性があるが、それ故に価値がないということにはならない。機械にかけなければ見ることのできない記録であっても、情報として価値を持つ資産であることは間違いない。

対価を払って入手しているデジタル情報などは、まさに資産である(譲渡についてはユーザー・ライセンスの定めに従うが)。またネットで共有されている家族の写真や個人的な思い出など、普遍的な価値はないかもしれないが、その人にとってはかけがえのないものとなる。さらに時間が経過することにより個人的な価値ばかりではなく歴史的な価値を持つものになることもある。学問的な価値がある記録も出てくる。

デジタル空間やネット社会の性質も考えておく必要がある。そこでの人々の活動はどのようなものなのか。

かつてよく聞いた仮想空間という表現が今あまり使われなくなったのは、デジタルの世界が一般的になり、画面の向こうにいるのは私たちと同じ人々である、そう皆が理解するようになったからである。たとえ実際に顔を合わせていないオンラインでの交流も、真実の交流である。電話が登場した頃は人々は奇妙な道具と思ったが、今はそのようなことを言う人はいない。ネットワークの世界もそれと同じ。

このようなことを勘案すると、ネット社会も現実の社会であるし、そこに積みあげられた記録も現実の記録であって価値を持つのは自然なことと思われる。

今ネットへの接続は人々の日常に欠かせないものになっている。デジタルネイティブといわれる若い世代は、ネットで新聞やニュースを読み、映像や音楽を楽しみ、読書をし、情報を集め、交遊している。インターネットへの接続がなければ途方に暮れるであろう。彼らにとってソーシャルメディアを使った友人とのやり取りから得た友情は、真実の友情である。

若い世代だけではなく、病床にある人にとって、ネットへの接続により外部とつながることは、健康な人以上に切実なものになっている。たとえ高齢者でもつながりをもとめる点では同じである。静かに好きな音楽を聴く、友人からのメールに慰藉を見出す。多くの病院でもそれを考慮し、無料の無線接続ができるようになってきている。

つまりオンラインでの生活も実生活なのである。すでにインターネットへのアクセスを法的権利、あるいは基本的人権としている国もある。

しかしここから問題が生まれる。そこで活動していた人物がいなくなったら、ネットの世界に蓄積されている情報はどうなるのか。冒頭に述べたように今は膨大な記録がソーシャルメディアに残されている。

あるときからアカウントの更新が止まるが、ネットの中には故人となった人の活動がさまざまに残っている(フェイスブックでは追悼アカウントを設けている)。

ネットに存在し続ける記録は、残された者にとってその人を偲ぶよすがともなるが、苦痛を与えることもある。記録を残したいと思う人もいれば、削除や変更したいと願う人もいる。そのようなことは可能か。また故人の友人にはどのようにして告知するのか。パスワードはどうするのか。様々な問題が出てくる。

このあたりから、ラジオの議論は細々した話になるので割愛するが、番組を多様な問題のリストとして聞いておく価値はあるかもしれない。

番組を聞いていれば、デジタル資産の行方についてはまだ世の中で議論を重ねていかねばならない大きな問題があるようであるが、こうも考える。

残されたデジタル資産については、相続人や関係者のアクセス手続、パスワードや認証、媒体の品質の問題など色々ある。ただそれは従来もあったこと。例えば技術についていえば、録音テープの劣化、酸性紙がぼろぼろになること、もっと前なら紙魚の問題など。エジプトのパピルスにも何か問題があったはずである。また故人が第三者や公的機関に預けていたものを引き取ったり閲覧するためには、煩瑣な手続上の苦労があったはずである。それぞれに個別の事情がある。

ここで注意しなければならないのは、技術や手続についての話に終始したり、場合によっては技術や手段を擬人化してしまうことである。マルクスの言葉を借りれば物神化である。そこからラッダイトの機械打ち壊しのようなものも出てくる。悪いのは機械だ、というわけである。けれども技術は手段であり、そこに意思はない。あくまでそれを使う人間の問題である。ネットの世界に没入するからといってネットに問題があるのではなく、ネットを使う人間の方に問題があるのであって、もっと人間の方に目を向ける必要があるのではないか。

本当に論ずべきは、デジタルという包み紙を取り除いた資産の行方である。手段はデジタルに変わっているが、その先にあるのは、故人の置いて行ったものについて、残された者がどう折り合いを付けるかという問題である。遺品の片付けはいつの時代にもある。故人を偲び、ときに痛切な思いを伴うことも昔と変わらない。媒体というか手段には特有の問題があるかもしれないが、それはいつの時代にもある個別事象であって、あまりデジタルという点にこだわると大本を見失うのではないか。

大分前のアメリカの映画に、亡くなった最愛の妻の声が録音されていたテープを消去して永遠に失われてしまったという、印象的なエピソードがあった。このときは故人を偲ぶ手段は録音テープであった。けれども大切なのはテープそれ自体というよりそれが象徴する故人への思いを自分の中でどう整理するかである。さらに遡れば、故人を偲ぶ手段は写真、手紙、肖像となり、粘土板にもなるであろう。北海道から東北地方で縄文時代の子どもの手形や足形の粘土板が出土しているが、それは死んだ子どもの形見であるといわれる。形は変われど人の心は変わらない。考えるべきは心の問題のような気がする。

デジタル資産についてもそのうちに議論は落ち着くべきところに落ち着く。残るのは昔からある人間の営み。残された者が暫らくは故人のものの始末をするが、各自に残る思い出も一世代過ぎれば多くは忘却される。100年すれば今この世で息をしている者はほぼ居なくなる。我々に関する文字も写真も映像もいずれなくなる。デジタル資産も、70万巻といわれたアレクサンドリアの図書館の書物と同じ運命を辿るのかもしれない。

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2017.12.31

こちらから動く

冬休みで一家で来ているCがPの家の電灯を直した。灯りが点かないと聞いて前触れなしに現れて直したのである。彼はパリで電気工事の仕事をしていてお手のもの(当方の東半分の改装のときも手弁当でやってくれた)。Pがそれを徳として一家を招く。こちらもお相伴に与る。お互いに招き招かれをしている。彼の方から自発的に動いて事態が進展する。それにより村とのつながりが深まる。こちらの記憶にも残ることとなった。

その後Iさんとやり取りをして議論を深めたので、少し補足する。

(1)人間のこのような基本的な行動様式には、言語や文化が違ってもそれほど違いはない。

(2)違いがあるとすれば、都会と田舎での人々の振る舞い方の違いであろう。都会ではドライに済まそうと思えば大概のこと(すべてではないところが味噌)は金銭で解決する。それに対して田舎は現金収入が限られているからか、人と人とのつながりを頼って問題を克服する。収穫の時など共同で農作業をしなければならないため、普段からお互いをよく知ったうえで頼りになりそうな人に目星を付けている。

(3)とはいえ都会の人はすべてドライで、田舎の人が皆親切ということにはならない。同じ人間が環境に応じて振る舞いを変えるだけのこと。田舎では金銭の帳簿は大雑把かもしれないが、それ以外の長期的な貸し借りはお互いに十分に記憶の帳簿に付けている。一方的な善意の持ち出しでは割に合わないと考えるのはどこでも同じで、持ちつ持たれつの関係となる(勿論篤志の人がいて力のない人を助けるということはどこにもあるが)。

(4)彼の行動を見ていて感じたのは、善意を自分の方から他人に分かつ人がいて、その結果人の輪が広がっていく、ということ。押し売りになってはいけないが、善意の積極性が良い循環につながる例を見たと思った。

これは露伴の言葉を借りれば、福を分かつ、福を植えるというようことかもしれない。

別の喩をすれば累乗の問題となる。つまり人にはそれほど違いはなく、その平均を1.00とすると1.01と0.99くらいの差しかない。ただ1.01を何回も掛け合わせていると非常に大きな数になる。また0.99を何回も掛けているといずれは0に近くなる。Cは本来が1.01であるところで、手を差し伸べたことにより、さらに1.01を掛けたのである。

彼は自分のできる範囲で福を分けそれが善意の循環になり、パリ暮らしであるが村の人々と一歩近くなった。そのときにこちらが際会したという訳である。笑う門には福来るとも通う(ただ、都会でも村でも皆がそうではない。付き合いがごく狭い人もいるのはどこも同じ。結局はその人次第)。

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2017.12.17

失せものの行方

ないない、ないっ。どこに行った。お前知らんか。使いやしなかったろうな。ええ俺の眼鏡だ。まあお父さん、ほらおでこの上にあるのはなあに・・・

洋の東西を問わずどこにもある話。ものがそう簡単になくなる訳はない。他人を疑う前にまず自分の身の回りをよく探すこと。他人を呪わば墓二つという。

失せものは大概あとで何処かからひょいと出てくる。引き出しの中には似たようなものがいくつも転がっている。自分で仕舞っておいて忘れているだけ。それはモズのはやにえと同じ。人間の記憶力など多寡が知れている。こんなことがよくある。

失せものは物理的な形をとるもので生ずるばかりではなく、電子的なファイルでも同じこと。それを検索する道具が出ているのは、皆が失せもの探しを常にしている証拠である。

(失せものと分類)
何故ものが失せるのか。考えていてそれは分類に関係しているのではないかと思うようになった。

(1 分類とは)
分類とは何か。広辞苑には「種類によって分けること」とある。しかしこれは分類という漢字を分解しただけで、あまり役に立つ語釈ではない。分類を自分なりに定義すれば「多数のものを共通要素でまとめ、共通要素がなければ別にすること」である。

ものが少ないときには分類は生じない。集まったものは小さな引き出しに入れておくだけ。そのうちに数が増えてきて、ものの中にある同じ要素(裏からみれば違う要素)を見付けて分類区分をするようになる。人は仕事や日常に必要なもの、好きなもののコレクションなどで、様々な分類をしている。そうせざるを得ない。

(2 分類基準の多様性)
ではどのように基準で分類するのか。子供のときの机の上を思い出す。色々な勉強道具がある。それを科目であるとか、教科書やノートの大きさ、色などで分けて、あちこち動かしたことを思い出すが、分類基準は様々にある。

時系列で並べるという方法がある。主題別にしたり、あいうえお順というのもある。道具などは大きさや形状で分ける。大きなものは外、小さなものは手元に置いておく。楽譜は楽器別、作曲者別、時代別、人数別、通奏低音の有無などで分ける。分類基準が色々あるのは、ものに様々な属性があるからである。大きさ、形状、時期、分野、作者、素材、時代など。私は一体誰なのというアイデンティティーの問題と同じ。

そのどれに着目するかは、人により異なるし同じ人でも状況により変わってくる。それが一義的な分類ができない理由である。

一つものをいくつもの基準で分けることができる場合、どちらに入れようか仕舞おうかと迷った末に、一先ずどこかに入れておくということになる。しかしどこに入れたかはすぐに失念する。あれはどっちに入れておいたっけ。あっちかこっちか。斯くして必要なものをすぐに取り出せず、迷子や失せものが発生する。つまり失せものが生ずるのは、様々なものを扱うときに分類基準が一定にならないからである。

しかし失せものは本当に消えてしまったわけではない。思いもしないところに分類されて眠っているだけである。

(3 分類基準の流動性)
分類基準は流動的でもある。新たに何かが加わった場合どこに分類しようかと考える。分類を十分に考えたものにしておけばいいではないかというかもしれないが、予想外の新しいものが出て来て、分類は次第に増えてくる。

新しいものが少なければ、「その他」とか「雑」などという区分で間に合うが、その他の中身がいつの間にか増えて新区分を作らなければならなくなる。そのような結果として分類区分は常に動くのである。

(使ったら元の所に戻す習慣を付けるのは失せものが出ないようにする一つの手段であるが、これはそのものが既に分類されており比較的よく使われて記憶に残りやすいものの場合である。お父さんの眼鏡はこの範疇になる。ただ忘れてしまえばうまくいかないが。)

分類が固定的でないということを逆に言うと、分類は集まってくるものをその人の便宜に合わせて常に組み換えているということになる(何のための分類か)。分類は自分の達成したい事を考えた上での分類なのである。分類のための分類ではない。従って分類はそれをする人により異なるものになることは十分にある。

こうやって見てくると分類が固定的でない限り、「浜の真砂は尽きるとも」ではないが、失せものは世の中からなくならないのかもしれない。

(4 失せものを減らす)
失せものはなくならないかもしれないが、失せものを減らす工夫はあるように思う。

ものが増えるから分類が生じ、その分類が完全ではないために失せものが生ずるということであったが、それならものを減らしたらどうか。沢山のものがあるから分類が発生するということなら、ものを1つにすれば分類の必要がなくなる。その結果ものが行方不明になる事態も減らせる。一つしかないなら迷うことはない。場所ふさぎにならないだけではなく、気持ちの上でさっぱりする。精神の解放である。そして残ったものを十分に理解し愛情を注ぐことができる。

(補足 専門には分類が必要)
ただこのような方向は、自分が何かに特化しようとする場合にはうまくいかないことに注意すべきである。特化、すなわち専門を持つというときには、その分野の中身を細分化し、目的や用途に応じたものを沢山用意しておく必要がある。それは必然的にものを多くする。専門家は素人から見れば同じようなものを数多く揃えているのである。

ということは、ものを減らすのは何かの専門であることを止めるという覚悟に関わってくる。それはある域に達した人のすることかもしれない。達人ならざる我々は失せもの探しに多くの時間を費やし続けざるをえないのかもしれない。

(補足 失せものを探さない選択肢)
以上は失せものを探す前提で考えたこと。しかし本当に探す必要はあるのかしら。

(i) 費やす時間を考えれば、新たに手に入れるという選択肢がある。同じものを店で買ってくるだけではない、それを自分で作ってみる。自分の書いた文書が見つからないときはもう一度書き直してみる。それにより思わぬ発見をしたり、新しい工夫を思いつくこともある。どこまで探すかは、そのものの効用と探すことに費やす貴重な時間との比較権衡になる。

(ii) さらに進めば「なければないまで」とその事態をそのまま受け入れるという選択が出てくる。ただそれもやはり達した人の心境かもしれない。

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2017.12.11

普段の言葉

急ぎでテレビ番組の台本を訳して欲しいという。サイエンス・フィクション的なものの最初のエピソード。いつもとは毛色が違う。台本を書いているのは若い女性ライター。使われている言葉遣いから、彼女の普段接している映画や小説のこともある程度推測がつく。

この時期に日系の人物を主役に登場させるのには、ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロの影響があるのかもしれないなどと想像する。

ただそのような話題性だけにとどまらず、日本人なり日本の文化が、概括的なアジアという区分ではなくそれとして明確に認知されたうえで登場する機会が最近は多くなったような気もする。何人も出てくる日本人の名前も突拍子もないものではなくなった。

このような仕事をするときには、どこまで砕いた表現を使うかよく考える必要がある。あまり若者言葉になってもいけないし、かといって大仰と感ぜられる物言いになっては元も子もない。固い言葉は避け平易な普段の言葉で今風の感覚も適度に取り入れる。その塩梅が難しい。

各言語に特有の言い方があるので、そのまま訳すとおかしなことになる。普段システムに載せている自分用の辞書はいずれも専門分野のものなので、それもここでは使えない。ちょうどいい、日常会話用の辞書を拡充することにする。ありきたりの表現もたくさん用意して置けば、状況にぴたりとはまることがある。

これをしていると、普段の仕事とは違い頭の中の創造的な部位を刺激されている気がする。それが面白さかもしれない。もう少し。


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2017.12.08

省くこと補うこと

どうもわかりにくいと文章の手直しをしていて、こうではないかと思ったことがあった。簡にして要を得た文を作るためには、訂正や順番の入れ替えや材料の取り換えもするが、色々している推敲の中で最も多いのは加除である、そう思ったのである。では何を省き何を補ったら良いのか、手直しをしながら考えていた。

まず省く方であるが、段落の中では枝葉となる文を切り落とす。面白い挿話はつい使いたくなるが、使い過ぎると本筋が見えなくなる。また一文の中では形容詞や副詞を吟味し無用なものは削る。文学的な修飾を濫用すると、論旨が見えにくくなるばかりでなく品位が下がる。ここぞというときに限定的に使えばこそ文章が引き立ってくる。

次に補うこと。不足しているものはないかと探しながら読んでいくと、対応関係にある主述のいずれかが欠けていたり、目的語や補語がない例が見付かる。また文の主題や指示・動作の対象となっているものが代名詞で表現されていて曖昧なこともある。

書き手(それは自分のことも他の人のこともある)の頭の中では判っているのであろうが、それが文章に表現されていなければ、読み手が理解できないことが多い。文脈からの類推には限界があるのである。

そんなときは読者のため言葉を補ってみる。元の文章になくとも書き手の意識にあると思われるものを補うと、文が明瞭になる。補いには余分なものを付加するようで心理的な抵抗が生まれやすいが、補うことに躊躇するなかれ、というのが今回得た教訓であった。

加除は異文化の橋渡しでも必要になる。言語が異なるときには、その背後にある歴史や文化に根差す思考法も違っている。橋のこちら側にとって当然のことについては簡略にし、向こうでは当然でもこちらでは未知の部分については丁寧に説明する。省いたり補ったりが大切。特に補足的な説明をするという配慮が必要となる。

翻訳でも同じようなことがいえるかもしれない。翻訳は足さず引かずを旨とすべきであるという意見があるが、それは文化が近縁であったり実用に徹したものの翻訳でのこと。彼我の懸隔が大きいときには、省くことや補うことがどうしても出てくると思う。

文章を直しながら今日はそんなことを考えていた。

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2017.12.06

空気入れのマーケティング

自転車のタイヤに空気を入れようと町の自転車屋に立ち寄ったときのこと。その店は町の中心部の一等地にあり、子供のときから知っている。今は親父から代替わりして息子がやっている。

入口に「当店のお客様以外には空気入れは絶対に貸しません」と掲げてある。おや、力が入っているなあ。こちらが空気を入れさせてもらっている間も、その息子が図々しい客のことを言いたてる。親父以上に顎が張ってかなり頑固そう。

言っても通じそうもないので黙っていたが、本当はこう言いたかった。こんなことを貼り出しておくとお客を遠ざけるだけですよ。すぐに貼り変え、「どなたでもご自由にお使いください」、そう掲げてあれば新しい人が寄ってくる。そこから商売につながることもある。少しお金を出してコンプレッサーを入れて使ってもらうという手もある。自分の仕事のためだけでなく、皆が助かる。

客も千差万別。その身勝手な求めに対して、一銭もまけられない、わずかな仕事といえども最低料金はいただきます、というのも一つの方針である。しかし手の空いているときには、ああそんなのお易いご用ですよ、というやり方もある。北風になるか太陽になるか。

空気入れを使ってプラスのマーケティングをするのか、マイナスのマーケティングをするのか、それはその人次第。どんな商売、どんな応対でもそれは同じ。そしてその人がどちらであるかは日頃の行動を見たり発言を聞いたりしていれば自ずと見えてくる。

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2017.12.04

リベラル

松尾浩也さんが89歳で亡くなったいうニュースに接する。講義は明晰であった。その日の講義が体系の中のどこに位置付けられるかを黒板に書かれてからお話を始められ、一つ一つの項目もわかりやすかった。

大陸法系というより英米法系のデュープロセスを重視され、聞いていてとても開かれたものの考え方をなさると感じたことがある。ノートを取りやすかったのはお話が理路整然としていたからであると今になるとわかる。

弁護士と学者の違いをお話されたのも記憶に残っている。相談を受けて即座に任せてくださいというのが弁護士、良く調べてお答えしますというのが学者であるとお話をされた。それは先生のお人柄とも通ずる。

教養のときと学部で講義を聴き試験を受けただけであるが、ご逝去の報に遥か昔のことを思い出した。お教えを受けた多くの方が鬼籍に入っている。合掌。


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2017.12.03

単調な反復

おや、来る日も来る日も同じだって君は言うのかい。本当にそうかしら。毎回まったく同じことの繰り返しなのかな。注意していると、どこかに違いがあるかもしれないよ。細部を検討せず、一括りに毎日同じだと言っているのではないかな。

百歩譲って君の言うようにまったく同じであったとしよう。それなら何か道具を使う余地がありはしないか。それを使って効率的に仕事ができるのではないかと考える。

なに、そんな道具が見つからないってか。君ねえ、出来合いの道具がそのまま使えることはそれほどはないんだ。手に入れたら手を入れる。使いやすくしなければばならない。どうしても道具が見つからないときには自分で作る。その他の小道具が要ることもある。

あれ、少し意見を変えたのかい。同じようでもちょっと違う、だから大変なんだって。ではどこが同じなのかな。同じというのはどの部分なのだろう。同じところを言葉にしたらどうなる。それも一般化を意識して表現してみる。それは規則性の発見につながる。その規則を使えば、表面的に違うように見えて実は性質としては同じことをうまく処理できるようになるかもしれないよ。

単調な反復と嘆くことはない。どこの部分が一本調子なのか、反復されているのは工程のどこからどこまでなのか。それをよく観察することは、創造的な工夫の糸口だと思う。そこをどうしようかと考えを廻らせるのは面白いではないか。頑張れ。

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2017.11.27

役に立つ

曾て日本語を教えた女性から依頼があった。長く勤めていた日系の会社を解雇された。出産・育児休暇から復帰した直後のこと。納得できず不当解雇で訴えており、その審理に必要な日本語の資料を訳して欲しいと。

資料を読んでみると彼女がそういうのも無理はない。何度か彼女とやり取りをしながら事実を確認し、文書を訳して裁判所に提出できる形にした。

途中でも元気付けたが、最後にこう書いた。「すでに新しいお仕事に就いているようですが、あなたの元の上司、というか元の職場と長く争うのは時間の無駄です。残念ながらそれに値しません。前に進みましょう。私もオックスフォードのソフトウェアの会社にいるときに人員整理で解雇となりました。でもそれが自分の世界を広げるきっかけとなったのです。2人のお子さんとの貴重な時間も大切にしてくださいね。将来に幸あれかしと願っています。」

その後で彼女はプロフェッショナルネットワークに書き込みをしてくれた。Very professional and transparent. Good communication. Yanagisawa-San is a very scholarly man and a patient teacher. He also produces very good quality translation from Japanese to English. I would definitely recommend him to others.

誰かの役に立てることの有難さを感ずる。


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2017.11.24

生きることが仕事

しばらく父のところにいた。今年2回目。1万キロ先から来るのは手間であるが、子として世代としての当然のお役目。父は来月には94歳となる。前に書いたが6年前に母が亡くなってから一人暮らしをしている。「死にそうになればわかるが、まだそんな気はしない。そのときは電話する。今は来る必要はないし来られても困る。2年したら裏の老人ホームに引っ越すのでそのときお前たちがここに住むように。」との仰せ。

とはいえ高齢者のこと故に来ればすべきことは多々ある。今回は家の庭や外回りの手入れ、人に頼みにくい細々としたこと、古い荷物の整理もする。父の指示に従いあれこれを片付ける。古道具は業者に見せても一文にもならず、市の粗大ごみ処理場や廃品回収業者のところに持ち込み費用を払って処分する。それがご時世。人々が必要とするモノも移り変わる。大概の品物は消滅し、各人の記憶に留まるのみとなり、その記憶もその人が世を去れば失せる。

相続の話もする。今の住まいや財産のことよりも、思い入れのある父の故郷の土地や山林の話を拝聴する。固い岩同士がぶつかり合うようであった父子が淡々と書類の引継ぎをする。それは無言の和解かもしれない。

父は両手に杖を突くような状態でありながら車を運転し、月水金土曜日の日中はデイケアに出かけ、火木には弁当を持参して碁を打ちに行く。数か月前の運転免許更新時の認知機能検査でAであったと自慢していた。夜は手慰みの株のためではあるが経済の解説を聞いてメモをしている。買い物も炊事洗濯も自分でする。

父曰く、先月25日に近くの郵便局の入口でよろめき手すりを掴んだところ、その手すりが外れて転倒した。背中から落ちたがとっさに柔道の受け身で難を逃れ、職員や周りにいた人が助けてくれた。あざはしばらく残ったが人工股関節や膝に別条がなくて何よりだった。郵便局長が何度も訪ねてくれ、地域の各郵便局に施設の再点検をするよう通達も出されたそうだ。

この年齢になれば生きていくことが仕事。母が亡くなってから

 独り居はこのことかなと知るたびに
 老いしこの身を励まして生く

という歌を詠んでいるがそれから数年にして尚斯くのごとし。百まではいけるかもしれんという。その強靭な意思と生命力。

しかし父が自分で予定しているほどの時間的余裕はないであろう。実際のところ極めて限られている。当方の遊行も終わりにして店じまいをする時期が近付いている。

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2017.11.18

重なる響き

TrTrTnBの編成でジェンキンス、ブル、フェラボスコ、ミコ。すべての楽器の音程がぴたりと合い、2つのトレブルが重なり合いながら透明な音を伸ばしていくときの気持ちの良さ。充実した4時間であった。

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2017.11.17

機械はそうそう間違えず

早朝の列車。17号車57番座席。7が2回続くので覚えやすい。席についてもう一眠りしていたら途中で検札が来て目が覚めた。昨日作った栗おこわで朝食を摂る。そのうちに列車はカーンに着いて車内の乗客が増えてきた。通路を挟んだ隣の紳士が、新たに来た乗客にそこは私の席よと指摘されて立ち上がった。

するとその立ち上がった紳士が今度はこちらに向かって、実はあなた、そこが自分の席なんだがという。おや変ですねえ、17号車57番座席、ほらそう書いてありますよとこちらの切符、といっても予約したものの印刷物を見せる。彼も持っている切符を見せてくれるがやはり17号車57番座席とある。二人で変だなあと言い合いながらも、後ろの座席が空いていたので彼はそちらに座った。もう後は終点まで停車しないので実害はない。

弁当を食べ終わって考えてみる。彼の切符は駅で発行されたもの。駅で二重発券をすることがあるのか。システムはそこまでお粗末なのか。さっきこちらの切符の検札に来た車掌に聞こうかと思ったが、待っているとなかなかやってこないもの。車内で格別やることはない。もう少し調べてみよう。こちらは往復の列車を予約している。そのプリントアウトを点検してみる。

そこでわかった。17号車57番座席は正しいが、それは復路の切符の指定であった。10日後のもの。道理でさっきの車掌がこちらの切符のバーコードを読取った後で一瞬読取機を見直していたわけだ。当方の間違い。後ろの紳士に失礼を詫びた。多くの誤りは人為的なもの。機械は言われたことは正しく実行する。人間のミスがよく話題になるが、それは他人事と思っていた。自分がそれをする一人であったとはね。まあ当たり前の話なのだが。

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チョキチョキ

七分丈のズボン下が少しくたびれてきた。別に足首までのものが手付かずである。何年も前に母が買ってくれてそのままになっている。ふと閃いた。これを七分丈にすれば良いではないか。どうして思いつかなかったのか。自分の丈に合わせてチョキチョキとやって裾上げをして完了。

新しいものを身に付け箪笥の肥やしも少し片付き一挙両得。何よりこのような思考回路がこの年齢でも少しずつ形成されていることに満足を覚える。

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2017.11.14

鈴木石見

「永夜茗談」は編者不明であるが、戦国から江戸初期の武将の逸話を集めたもので、そこには我々の祖先の気構えや倫理そして寛仁大度が写し取られていて心地よい。内容は実記であると見られているが、その文遣いは江戸中期には既に古体と感ぜられたという。

そこに記録されている一つの挿話を古体を残しつつ少し書きなおして以下に掲げる。この話は「名将言行録」であったかどこかで読んだ記憶があるが、この「永夜茗談」では能狂言に残る物言い、さらには平家物語などに遡る古い趣を残した表現で書かれている。読んでいるとそのような武者の声音が耳朶に響いてくるような気がする。

鈴木石見と云ふ者は権現様から水戸中納言殿へ御附けなされ候隠れ無き武辺の者である。或る時石見が水戸殿の刀を持ち、御城大広間の溜の間に在りしが、伊達正宗も其所に居られしかば、石見は目を放ちしかと正宗を見る。

それ故正宗も不審に思い石見に謂いて曰く、「其の方我等を目を放さず見られ候。いか様の事に左程見候や。其方は何者ぞ。」

問われて石見答へけるは、「我等が事は聞きも及ばれ候べし、水戸殿の内に鈴木石見とて隠れなき者にて候。御自分(正宗)の事、音には聞きしかど見る事は今が始めなり。然れば水戸は奥州の御先手にて候、奥州にて逆心をすべき者は、御自分より外になし。依て御自分の顔を能く見覚え置き、逆心あらば其方の御首を取る可き為に斯くの如く見申し候。水戸の内にて其方御頸を取るべき者は拙者ならではなし。」

正宗其の心入を感じ、「我等ならでは奥州にて逆心すべき者はなしと見られ候は、如何にもよき目利きにて候。しかじかの日に申し請くべし」とて則ち水戸殿へ其の断りを云て私宅に呼び寄せ、自身に給仕をして殊の外馳走し、終日顔を見せられしとなり。

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絞られる

クローディーのところでリヨンとデイヴィッドの2人と初顔合わせ。2本のフルートによるソナタばかりをやる。バッハ、ヘンデル、テレマン、クヴァンツ、エマヌエル・バッハ。リヨンとクローディーがフルート、デイヴィットと当方で通奏低音。

デイビッドはロイヤル・アカデミーで学び、ウィリアム・クリスティーのレザール・フロリサンのメンバーだったが、声帯を痛めて引退。そんな人物が近くにいたとは。彼はすべての声部を聞いている。誰かが落ちるとその声部を歌って救い上げるが、止めてはくれない。アンサンブルはレース用のエンジンに換装されたようなもの。

こちらも一つ指摘された。小節の終わりを引き継いだ次の小節冒頭の歌い方。このパターンでの弓使いはこちらも注意しているところであったので、うんそうだそうだ。有難う。

無駄口はない。ひたすら音楽をするのみ。始めたら彼の何かに火が付いたようで、3時から8時まで随分絞られた。久しぶりの刺激。

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2017.11.06

広がりと奥行き

人の関心は好奇心の赴くままにどこまでも広がっていく。知識だけの話ではない。旅行、蒐集、お付き合いなどでも同じこと。若いときにはその傾向が強い。幅広く知っている、多くの国を巡っている、多数のコレクションを持っている、広範囲に交際している。

そのようなことが好きであれば、間口を広げるのも良い。しかし広げすぎるとその一つ一つとの関わり方が表面的になる。体力もいるし、何より各自の持ち時間は限られている。さてどうしたら良いのか。

そこで思い切って幅を狭くしてみる。敢えて数を少なくする。その代わり手元に残ったものを大切にする。機会は少なくなるかもしれないが、その少ない機会に努力を傾注してみる。手に入れたものは丁寧に使う。数少ない友達を大切にする。

それを続けていると、物には愛着がわくようになり、お付き合いが深くなる。仕事なら満足できるものになる。それを奥行きと言ってもいい。二次元の広がりが三次元の奥行きとなり立体的になる。

ただ奥行きが生まれるには、もう一つ隠れた要素が必要になる。それが時間。ゆっくりと時間をかけ仕事をする、玉を少しずつ磨いてみる、その場所を何度も訪ねてみる、ある人とじっくり付き合ってみる。それによって気付くことは多い。認識が深くなり共感が生まれてくる。深い理解とは時間の賜物であった。

奥行きが生まれるのには時間が大切であるとすると、そこに達するのには一定の経験と年数を掛けねばならないということになる。始めたばかりの人や若い人に性急に奥行きを求めてはならない。多くの人はそれなりの奥行きをいずれは身に付けるのであるから。頑張れ。

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2017.10.31

反応の構造

反応を巡っては
(1) 何に反応するか
(2) どのように反応するか
(3) 何故反応する・反応しないのか
というような問題を設定することができる。

(1) の反応の対象を、事実と感情に区分してみる。
(2) は反応のし方であるが、
事実に関しては肯定から否定まで
感情に関しては共感から反発まで
幅があるとしてみよう。
(3) そのうえで何故反応するのかを考えてみる。

このような区分をして概念の構造を把握するのは、思考を組み上げるための部品を作るようなもの。最終的には「人は何故共感するのか」を考えてみたいのであるが、その途中でこのような区分を思いついた。とりあえず備忘録にしておく。

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