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2017.02.13

部分と全体

翻訳をするときには余り小さく区切って全体を見失わないようにと注意される。段落全体で何が語られているかを理解し、前後の文章を把握し、その文脈の中で訳す必要がある。さてそれは部分とどのような関係になっているのか。全体観を得るにはどうしたらよいのか。

(1)考えてみると全体観はいきなり得られるものではない。まずは細かく区分されたもの(それは単語のことも熟語のこともある)がどのような意味なのかを正確に理解することから始まる。辞書を引くのはそのためである。場合によっては手書きの文字の解読から始まることもある。

(2)そのうえで、その区分されたものが他の小区分とどのような関係にあるのかを考える。例えばその単語なり文節が、他の単語や文節と対比したときに、並列なのか、順接なのか逆接なのか、装飾・被装飾の関係にあるのかを理解する必要がある。

他の単語との関連を検討したうえで、辞書にない表現を考える必要も出てくる。単語が熟語の中で使われると意味が変わる場合があるのも、このような関係性を勘案するからである。

(3)そのような部分の確認作業をした後に初めて、区分されたものが一つの文章の中でどのような位置付けになっているのか、前後の文章や段落との関係で辻褄が合っているのかを考えることになる。筆者の言いたいことが読み手の中である程度まとまった形で姿を現すようになるのは、このような手順を踏んでからのことである。

訳文を作っていく際に全体の中での均衡を吟味し当初の理解で良いのかを検討するのは、この段階の話である。その前の検討を飛ばしてはいけない。

(随分前のことになるが、欧米諸国が国際データ流通(Transborder Data Flows)を問題にしたことがあり、米国議会の立法の動き追ったことがあった。そのときに米国の文献にsun setという言葉が出てきて、20代半ばの自分はサンセット法と訳した。個別の単語に捉われて全体観を得ることがうまくできなかった例である。今なら時限法と訳すであろう。)

部分と全体は密接につながっている。どちらか一方では不十分。全体観を大切にという議論はもっともであるが、それは「各部分を丁寧に確認する」ことを前提にしての話である。部分を確認しつつ、次第に浮かび上がる全体像を見ては、部分に戻ってそれを修正する。その繰り返しにより全体の像が明瞭になってくる。全体観が単独にあるのではない。

それは訳文を作るときも、自分の文章を書くときも同じ。部分と全体の両者を往復しなければ首尾の整った文章は書けない。その往復により自分の思考が少しずつ明晰になってくるのである。

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