2012.05.16

空中戦からの離脱

2階で仕事をしているとどこからか蛙の鳴く声が聞こえてきた。田に水が入り連休の間に田植えが行われ、蛙たちが活動を始めているのである。両親が家を建てた46年前、ここは市街地が尽きようとする新興住宅地で、その先はすべて田圃であった。夜になるとその田で蛙たちは、騒がしく鳴き交わしているかと思うと、一瞬すべてが鳴くのを止め、再び賑やかになるということを繰り返していた。

高校になり駅から家路を急ぐとき、この蛙の声が迎えてくれた。戛々という下駄の音に、蛙は暫く静まるがすぐに元のように鳴き始める。歓迎のこの声は、大学に入り、社会人になり、次第に親元に戻るのが間遠になっても、常に変わらず耳に柔らかく響き、家に帰ってきたという思いを持ったものである。しかし周辺はいつしか宅地化し、蛙の声を聞くことは稀になっていった。それが久し振りに聞こえてきたのである。蛙の声に、曾てのことを思い出した。

若い頃に、一人で読んでいては理解が難しい本も皆で読めばわかるかもしれないと、何人かで集まって読書会をしていた。読むのは社会学、心理学、言語学、哲学などの交錯する分野の書物が多かった。担当となった者が割り当てられた章の要旨を作り報告をし、それに他の者が質問や意見を加えるという形であった。皆その方面の本をよく読んでいて、読書会はいつも議論の空中戦の様相を呈していた。

それに参加しつつも醒めた自分が他方にいて、この議論を腑に落ちる言い方にするとどのようになるのかと、自問もするようになっていた。そのような問いかけは、どのようなところから発したものであったのか。

読書会は確かに知的刺激の場ではあった。そこでの話に触発され新たな方面の勉強をすることも多かった。しかしよく考えてみると、誰もが適切な設問を作れていなかったし、適切な設問が出来たとしてもそれに正しく答えられず話が拡散していた。ある命題なり用語の説明のために、また別の難解な命題や用語を導入して、一つの命題に集中できていなかったかもしれない。

皆でやっていたのは、断片的知識を誇示して気炎を上げることで、まあ、それが楽しかったのかもしれない。議論の中に、知識人の名前や著名な概念が鏤められるが、十分にその人なり概念を咀嚼していたとはいえない。今なら、それはどういうことなのか、別の表現で言ってくれないか、と躊躇なく尋ねるが、そのような知恵がなかった。

議論を理解できたとしても、それは理屈だけのことで、人間の日々の営みで具体的に裏付けられた理解にはなっていなかった。実体験と想像力が欠如していたのである。

人のものの考え方、行動の仕方、人の集まった社会の本質は、大枠では万古不易。そしてその真理は聖人、賢者、学者の独占物ではない。耳を澄ませば、普通の人々が平明な言葉で同じことを語っているのが聞こえてくる。そのことに気付き、実際の体験に基いて、大切なことを易しく述べられるようになるには年数がかかる。そのような知恵を身に付けるには、大勢で議論するのではなく、少人数で静かに対話をし、あるいは一人で熟考することも必要になる。

空中戦をしつつ、腑に落ちる表現を求めていたのは、そのような方向に舵を転じ始めた頃であったからかもしれない。

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2012.05.13

生態の一員

フリッチョフ・カプラという人がいる。オーストリア出身の物理学者であり、物理学とタオイズムの相同性を考えた人物で、バークレーの生態理解センターを主宰している。その彼が、2011年10月にマヨルカで行われた、生命についての教育に関する会議で話をした。新しい科学的知見をもとにして、人間が大きな生態システムの一部であり、人間だけを切り離して考えることはできないと説いている。

カプラの考えるところは、今なら書物や論文や講義でたやすく知ることができるので、いくつかを読んでみた。彼を知るきっかけとなったのは、あのサティシュ・クマールが編集する雑誌リサージェンスである。これは環境と人間を考える雑誌で、自然の中で人はどのように生きるのか、教育や芸術はそこにどのように関わるのかなど興味深い記事が数多くあり、そこでフリッチョフ・カプラの言うことにふと目を留めたのである。

話はちょうど自分が考えていることと重なっていた。その話は、生きとし生けるものの生命の営みを思想の根幹に据えた安藤昌益とも響き合っている。というよりも、古来から野の草花や生き物を慈しみ、私たちもその一員と考えてきた日本の普通の人々のものの考え方と同じではないか。あるいは知らず知らずのうちに身体の中に浸透している、仏教の曼荼羅にも通ずるのではないか。ともあれ、カプラの話を聞くことにする。

生態について学ぶ フリッチョフ・カプラ

今の世界の状態を考えるとき、私たちが抱えている大きな問題は、それだけを切り離しては理解できないものになっています。そのことは明らかです。これらの問題はシステム的な問題なのです。つまりお互いに繋がりあい、依存しあっているのです。世界の諸問題が根幹部分で相互に繋がっていることを最も詳しく文書にした労作は、レスター・ブラウンの近著『プランB』です。

ブラウンは、ワールドウォッチ研究所の創設者で、最近アースポリシー研究所も創設しましたが、長年環境について考えている権威者です。この本で彼は、人口構成の変化による圧力が貧困を生み、その貧困がさらに人口構成を変えるという悪循環が生じ、地下水位の低下、森林の縮小、漁業の衰退、地味の劣化などの資源枯渇が生ずるという道筋を非常に明瞭な形で示しています。そしてこの資源の枯渇が気候変動によりさらに深刻化し、政府が市民に安定した生活を提供できないような国を生み出し、絶望の余りテロリズムに走ることも生じているさまも明らかにしています。

必要なのは、このような問題のすべてが究極的には単一の危機を違う面から見たに過ぎないという理解で、その危機とは大きくはものの見方が危機に瀕しているということなのです。これは、私たちの社会に組み込まれている多くの人々、特に大組織の人々が、古い世界観にとらわれ、つまり人口が多くなりすぎ相互に連関した世界に対処するには適切とはいえない現実認識のままでいることに由来します。

『プランB』は文明を救うためのブラウンの処方箋です。これは、そのまま行けば大惨事につながる「従来どおり」のやり方(プランA)に代わるものです。この本の大きな主張は、今日の大きな問題への対策は存在すること、その中にはとても単純なものもあるということです。しかしそのためには私たちのものの見方、思考、価値観を大きく変える必要があります。そして科学や社会に対する見方は実際のところ、根本部分で世界的に変わり始めています。

現代科学の最先端では、宇宙はもはや基本的構成要素が組み合わせられた機械とは考えられていません。科学者は、物質世界も究極的には様々な関係が分かち難くなったパターンのネットワークであることを発見し、惑星が全体として生きており、自律的で、自己組織化するシステムであると考えるようになったのです。人体を機械とみなし心は別物とする見方は、脳だけではなく免疫システム、身体組織、さらには一つ一つの細胞も、生きており認識する力を持つシステムであるという見方に置き換えられています。進化も、生存競争というよりは、むしろ創造的で常に新しいものが生まれるような、協力しあうダンスのようなものと考えられるようになりました。複雑性、ネットワーク、組織のパターン化などが新たに強調されるようになると、新しく質の高い科学が徐々に生まれてきました。

また、生命についての新しい考えには、新たな思考法が含まれます。関係性、パターン、文脈に注目する思考法です。このような思考法は、科学では「システム的思考」「システムシンキング」として知られているものです。これは1920年代、1930年代に、生物学者、心理学者、生態学者たちが行った一連の学際的な対話の中から生まれてきたものでした。これらの分野では、生きたシステム、つまり有機体、環境システム、社会システムは統一された全体であって、その特性を小さな部分には分解できないことに科学者が気付きました。この「システム的」特性とは、全体としての特性であって、その部分には存在しないものです。そこでシステム思考では、ものの見方を部分から全体に変えていかなくてはならないということになります。システムについて初期に考えた人達は「全体は部分を寄せ集めた以上である」という表現をしました。

生命についてのこの新しい考えを、地上にある無数といえる種の構造、代謝、進化に当てはめたときにすぐに気付くのは、数十億年にわたり持続する生命がそこにあったということ、それが私たちの生物圏の特性として際立っているということです。では地球はこれをいかにして達成したのでしょうか。

自然がいかにして生命を持続させてきたかを理解するには、視点を生物学から生態学に移す必要があります。生命の持続は、単一の器官や種ではなく生態システムの特性であるからです。数十億年の進化の過程で、地球の生態システムは、網のようになった生命を維持するため、組織について一定の原理を生み出しました。このような組織の原理、あるいは生態学の原理を知ることは、持続的な人間社会を作るうえで欠かせません。

これからの時代に人類が生き残れるかは、私たちが生態について理解すること、つまり生態の基本原理を理解する私たちの能力、それに従って生きる能力にかかっています。このことは、生態についての理解が、政治家、ビジネスリーダー、あらゆる分野の専門家に欠かせない技能となり、小学校から、中学校、高等学校、大学、その後の職業教育や訓練まで、あらゆる段階で最も大切な教育になることを意味します。

私たちのバークレー生態理解センターでは、学校で生態理解を教えるための特別な教育法を開発しました。これは生態学を基にしていますが、これだけが唯一の方法ではありません。生態の理解は、多くの土着文化に見られる伝統的な知恵に体現されていますし、ディープエコロジーという思想にも体現されています。

このディープエコロジーという思想はノルウェーのアルネ・ネスが考え出したもので、生態についての浅い考えと深い考えとを区分します。ネスによれば、生態についての浅い考えとは、人間を中心にしたものです。そこでは、人間は自然の頂点に立つかそれを超えた存在で、すべての価値の源泉であると考えます。自然には手段としての価値または使用価値しか認めていません。これに対して生態についての深い考えでは、人間を自然環境から区別せず、それ以外の何者をも自然から区別しません。この考えでは、世界を孤立したものの集まりとしてではなく、根本的な部分で相互に繋がり依存しあっている、様々な現象のネットワークであると見ます。ディープエコロジーでは、すべての生き物には固有の価値があるとして、人間も網の目のようになった生命の中の一員に過ぎないと考えるのです。

ディープエコロジーでの認識とは、究極では精神的な気付きです。人間の精神とは、私たちが全体としての宇宙と繋がっているという感ずることであると理解すると、生態を意識することが根源の所で精神的であるということが明らかになるのです。

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2012.04.30

なぜ集まるのか

教養ときのクラス会の案内が来た。クラスを担当してくださった恩師も出席されるとのこと。先約があり出席できないので幹事と恩師にはお断りのご連絡をしたが、人はなぜこのような集まりをするのかと、ふと疑問を抱いた。そこで恩師にお送りした欠礼のご挨拶は、それを巡る自分の思考過程を記録するものになってしまった。ご高齢の先生には申し訳ないことをしたような気がする。母には「年長者には長々書いてはならぬ」と戒められていたのであるが。

・・・クラス会については、相反することを感じています。

一つは、同じクラスに集まったクラスメートも皆違うということ。確かに似たような目的意識で入学し同じような科目を学んだわけで、その時には多少の共通性があったかもしれません。しかし今になると相違の方に目が向きます。喩えれば、私たちは束ねられた稲穂のようなものです。つまり入学した頃には束の根元で皆同じような所にいて仲間と感じていますが、次第にそれぞれが異なる方向に伸び、稲穂の先は別の所に行くのです。

(このような思いは、大学のクラスメートとの関係だけではなく、職場の同期との関係でも生じます。むしろそちらの方がはっきりしてきます。同期は特別なものといいますが、それでもやはり最終的には機能として集められた一群の人々なのです。)

結局の所、同じ問題意識で話ができる人はごく限られているでしょう。そのような会話ができる知友を得られれば、それは僥倖というべきでしょう。エピキュロスは、数人の良き友、と言っていました。しかしこのような思いを述べるのは、自分が他と毛色が違う特別な存在であると主張するためではありません。楽しそうに談笑しているように見えるあの人この人も、会が散ずればすべて同様に個になると感ずる点では同じでしょう。

そのような感覚からすると、共通性の少ない会合は失礼して、感性を共有できる少数の友人と歓談を楽しむ方が良い、私なら音楽の知友とコンソートを楽しむということになりそうです。

しかしそれと相反するもう一つの感覚があります。つまり上に述べたような事情があるのに、私たちはなぜか集まってしまうとも思うのです。機能性を追及するだけであれば、その機能を得られないとわかった時点で集まらなくなります。現役を引退すれば仕事の付き合いがなくなるは、そのような機能が得られないからです。

それなのに何故にクラスで集まるのか。もっと極端なことを言えば小学校の同窓会になぜ皆が出席するのでしょうか。機能性ではありません。単純に言えば、思い出話に花を咲かせるのが楽しいからです。では何故楽しいのか。思い出に一夕の歓を尽くすために集まるという事実のさらに背後には、どのような人間の意識が働いているのか。

先日実家に帰ったときに小学校の同級生に偶然会いました(幸いに小学校、中学、高校と転校をすることなく自宅から通学できたので、かつての同級生に何かの拍子で行き会うことがあるのです)。悦子さんというその同級生と立ち話をしたのですが、意識はあっという間に小学校の低学年のときに戻り、彼女の前歯の一つがやや大きめで目立ったこと、半袖からよく日焼けした腕が見えていたことなどがたちどころに思い出され、不思議な気持ちになりました。

このような思いの奥にあるのは結局の所、同じ時代に同じ空気を呼吸した者であるという意識かもしれません。同時代性と表現したら良いでしょうか。これは親の世代とは共有できないし、子供の世代とも共有できない感覚でしょう。南方で敵味方として戦った日米の元兵士、或いはノルマンディーで死闘を経験した連合国とドイツの元兵士が恩讐を超えて会うのも、そのような時間を共有した感覚があるからかもしれません。

ではもう一歩進めて、同時代性とは何なのか。それは同じ時間に生命を共有することであると思います。そして思い出を語るとは、共有する時間を一緒に遡ること、別の表現をすると生命の流れを源流に向かい共に辿ることである、そのように感じています。ちょうど多くの鮭が成長し海から生まれ故郷の川に遡上するように。時間の流れに抗してそれを遡及するときに、脳内には不思議な感覚が生ずる、それこそが人々を惹き付ける神秘の核心ではないかと考えます。

それは、個を超越した群体としての生命体に、あの生命もこの生命も収束しようとする作用と表現できるかもしれません。人間の行動とて理性が支配している部分は少なく、大きく見ればこの地上に生を享けた存在の一つとして本能に支配されているところの方が大きいのです。本能とは、大きな力と言い換えてもよいでしょうが、私はそれを群体としてまとまる大きな生命体の力と感じています。ジェームス・ラブロックは地球それ自体が大きな生命体であるとしてそれをガイアと呼びました。ジャイナの教えにも同じ思想があります。

私たちはそんな不思議な力に衝き動かされている、意識するかしないかは別としても、私たちはそのようなものを少なくともどこかで感じている、それゆえに人は集まるのではないか。クラス会の招集通知に触発されて、そのようなことを考えた次第です。
・・・

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2012.04.26

アイデンティティーの広狭

壁のことを考えていた。壁とは万里の長城であり、ハドリアヌスの長城であり、ベルリンの壁であり、イスラエルがヨルダン川西岸に築いた高い壁のことである。

それは実際に触れられる壁であるとともに、心の壁でもある。その壁を作る行為の根底には、自分はこのような人間である、我が集団は斯くあるべしという理念により自他を区別する心の働きがある。それはそれぞれのアイデンティティーの問題である。

そのようなことを考えている時に、啓発される文章に接した。「境界の地の忠誠心」という表題が付いている。ここには興味深い論点がある。そこから何を学ぶか、今日的な問題に対して如何に対処するか(http://goo.gl/8aK9u)。

これを書いたのは39歳のロリー・スチュアート。作家でありイギリスの国会議員になって間もない。出自はスコットランド、1973年に香港で生まれ、マレーシアで育ち、イートンからオックスフォード大学に進む。卒業後、スコットランド高地連隊で短期間勤務したのち、外務省に入りインドネシアのイギリス大使館で勤務、コソボ紛争中はモンテネグロのイギリス代表団に加わり、その後イラク南部の二つの県で副知事、上級顧問として務める。2000年から2002年にかけて、パキスタン、アフガニスタン、インド、ネパールを徒歩で横断。2004年以後はハーバード大学のカー人権政策センターの特別研究員。

そして2010年から英国下院議員となる。彼が選出されたのは、スコットランドと境を接するイングランドの最北西のカンブリア(湖水地方もこの中に入る)の選挙区である。「境界の地の忠誠心」という文章は、スコットランド分離運動について、カンブリアから書いたもの。現在議論されているリファレンダムが成功すれば、2016年に今のスコットランド議会よりさらに独立色の強い議会が生まれ実質的に英国が割れてしまうが、彼はスコットランドの分離独立に反対するのである。

彼は、スコットランド独立という英国の国内政治の問題を論じているが、そこにはイギリスを超える普遍的なものがある。アイデンティティーの捉え方が独創的なのである。このような考えを抱くに至ったのは、幼い頃から現在に至るまで広く外を見ている経歴が影響しているであろう。

現在のスコットランドとイングランドの境界は1552年に定められたが、紀元2世紀前半に築かれたハドリアヌスの長城は、現在の境界よりは南にあった。ハドリアヌス帝から数十年後には、現在の境界より今度はずっと北方にアントニヌスの長城が築かれている。また700年前のカンブリアには、スコットランドでもイングランドでもない別の王国があった。つまり境界は自然界にはない人為的なもので、それすら歴史の中で動いている。現在の境界が、固定された絶対的なものではないのである。

ロリー・スチュアートは実際にスコットランドの父の家から、自分の選挙区であるカンブリアまで歩いてみる。取り立てて何か別の国に来たような感じはしない。「境界」地域に住む人々も境界を越えて行き来して、入り混じっている。現在の英国民が、イングランドもスコットランドの要素も(そしてそれ以外の要素も)、混じり合った混成物であるように。

大きく見れば似たようなもの、同じような風土に同じような人が暮らしている。そのような中で、スコットランド分離を主張する政治家アレックス・サルモンドを、ロリー・スチュアートは「排他的で分離したアイデンティティーを採用しようとしている」と批判している。それでは人々が引き裂かれてしまうというのである。

彼の考えが独自と思えるのは、アイデンティティーを排他的ではなく多くの要素を包む込むようなものと捉えている点である。彼は「イギリスのアイデンティティー自体が多様である、その構成員のアイデンティティーに一つとして同じものはない」と考える。アイデンティティーは人によって異なる。その違いが活力になる。大きな共同体の中で少数派であるという違いを楽しむ、それこそがイギリスのアイデンティティーなのだというのである。

アイデンティティーは自己同一性と定義されることが多いが、個人から大きな共同体まで一つのまとまりを持つものの特質と考えることもできよう。そこには自他を区別する要素を含んでいる。とすれば、アイデンティティーを様々な相違を包摂するものと捉えることは、定義に撞着することになりかねない。

しかしたとえそうであるとしても、このようなアイデンティティーの捉え方は大変魅力的である。ある成員が他と違っていたとしても、それで構わないと許容する共同体は強くなれる。アイデンティティーを狭く解すると、人間も狭くなる。突き詰めていけば、我々は多少の差はあっても、大きな共同体の成員である点では皆同じなのである。

ではアイデンティティーの意味するところを広くしたときに、私たちの日々に、そしてそれぞれの暮らす共同体に、どのように生かしていくのか。歴史、伝統、文化とどのように調和させていくのか。次の段階は実践になる。

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2012.04.25

意思と運命

袁了凡(えんりょうぼん)は明代の学者。秀吉の朝鮮出兵時、明の朝鮮援軍の参謀であったという。その編纂になる歴史綱鑑補は資治通鑑から派生した史論で、曾て日本の藩校でも八大家文章、資治通鑑などと共に教科書の副読本として使われていた。その袁が六十八歳の時に息子のため自分の体験を書き残したのが「了凡四訓」で、以下はその中の話である。

袁了凡は幼くして父を失い母に育てられるが、青年時代に孔という老占師に出会う。老占師の言は悉く的中する。老人は或る時、了凡の今後を占い県試、府試、提学の試の順位を告げるが、翌年了凡が試験を受けると結果はいずれも孔の告げたとおりとなった。孔はその後の了凡の修身の進み具合、任官の年と在任期間、さらに五十三歳の八月十四日の丑の時に在宅で死ぬこと、子を授からぬことまで判示を書き残している。果たして了凡のその後は常に老人の判じた所の外に出なかった。

そこで了凡は、人には定まれる運命があると観ずるに至り、営々と謀を廻らし汲々と思うを止め、世と競う意を消し胸安く月日を経た。それも人生の会得の仕方の一つである。

了凡はその後仕官をすることになり燕京に行き、雲谷禅師を棲霞山に訪れる。一室に対座すること三昼夜、雲谷はその了凡の有様を見て問う。そなたは座すこと三日にして一の妄念も発するなし、如何にしてその境地に達したかと。禅に悟入した人をも感嘆させたのである。

了凡答えて曰く、格別の修證あるにあらず、ただ孔先生の算定により、栄辱死生に皆定まれる数あるを確知す、妄想の起き得べきようもなしと。

ここで大きく状況が変わる。雲谷禅師は笑いこぼれ、そなたは豪傑にあらずして凡夫にありしかと言う。眞に人生に命数なきことなし、世には定まれる運命もあらん。ただしそれは凡夫のこと。数は極善の人を捉え得ず、数は極悪の人をも捉え難し。汝二十数年孔老人に算定され些かも出ることなし、極善にも極悪にもあらず、凡夫ならずして何ならんと。

了凡は、はっとする。禅師に問うて、然らば命数天運を逃る可きやと。禅師答えて曰く、命は我より作し、福は己より求むといえり。一切の福田は方寸(心)を離れず、心より求むるならば感じて通ぜざるなしと。自らの意思と善徳を積むことで、定められた天運を脱し新しい人生を開くことができるというのである。

袁はこの教えを得て、運命のままに生きることをやめ、平凡であることを了(おえる)という誓いを籠め、名を了凡と改めた。その後、袁は孔老人の予言を脱し、合格できないと言われた科挙の試験に合格し、授からぬと告げられた男子を得て、高位に上り、死ぬと言われた五十三歳を遥かに超える長命を得た。

これは露伴が大正七年五十一歳のときに書いた「運命論-袁了凡と雲谷禅師と-」の一部を自分流に書き改めたものである。全文はその後『古革籠』に収められ、現在は露伴全集で読める。この話は易や安岡正篤の著作を通しても知られているようであるが、天運と自らの意思の関係を明らかにする挿話である。

露伴は、「後になりて了凡四訓を読むに及び、また是れ一種の人なることを知りぬ」と書いている。また上記の話を収め、四訓の第一にくる立命之学について、「一読三思の価無しとせず」とも書く。

この話を知って懐く思いは露伴と殆ど同じである。運命と意思の力の関係を喝破した雲谷禅師、その教えに気付きを得てそれを実践した袁了凡。一読三思、何をかなすべき。

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2012.03.09

留まるか進むか

父は12月に転倒して大腿骨頸部を骨折して、ボルトで固定する手術をした。しかし予後が思わしくなく2回目の手術をした。今度は人工股関節を埋め込んだのである。

2回目の手術をすると聞かされた当初、父は大変に落胆した。2月中の退院を目指して頑張ってきたのが、さらに3ヶ月入院が延びるのである。合計6ヶ月の入院になるとわかり、この失われた期間は残された12年の中ではとても大きいとも言った。

手術を2回せざるを得なくなったは大変残念である。ただ、それを医師の見立て違いとするのは少し酷であろう。当初の手術は、いきなり人口股関節にするのではなく、本人の骨を生かそうとしたものであった。

その時に医師はリスクの説明もした。つまり頸部のつぶれにより一部の血管も切れている可能性があり、それにより骨頭部分への血流が十分に行われず、骨の再生が悪い可能性もあるとの説明はしたのである。

一方で本人の骨を温存し大手術を避けるか、他方で骨の再生不全のリスクを重視して一気に人工股関節にするか、その判断はやはり医師に任せざるを得ない。医師はそのときには様々な比較考量をして良かれと考える策をとったのであると思う。そして本人や身内としては、リスクを承知してすべてを医師に任せざるを得ない。

ともあれ第2回目の手術は、前のボルトを取り外し、新たに人工股関節を埋め込むものであった。6日に手術をしたのであるが、予定より長く3時間半となり、出血も800CCあった。麻酔が切れた段階で大変痛い思いをした。出てきてすぐに執刀をした医師からこちらが説明を受けている間も、父の声が病棟中に轟いていた。普段は我慢強い父がそれだけの声を挙げるというのは相当のこと。そのうちに座薬が効いてきて少し楽になったようで、それを見届けて父の家に戻った。

父が2回手術をしたことに対しては、病院として神経を使っているようで、医師が2度の手術になったことを詫び、トレーナーも相当慎重にやっているとのこと。幸い翌日は大分痛みもなくなり、2日目にはリハビリもした。現在は入院してからの普段の生活に戻った感があり、ひと安心である。

しかし88歳から12年という弁からすると、当人は100歳まで生きるということ、その意気や盛ん、と寿ぐべきである。一時の落胆からも回復しつつある。

毎日見えて下さる近所のTさんを初めとして、多くの方が見舞いに来て下さり刺激がある。何よりと思うのは、院内を車椅子で歩き回り他の患者や、看護師や介護の人たちと積極的に話をすることである。名前や出身を聞いて、あの人この人を知っているかと話をしている。

入院患者を観察していると、多くの人はじっとしていて、このような行動をしているのは父以外には見当たらない。好奇心なり人間に対する興味は、年齢相当以上にあるということで、それを喜ぶ。過ぎたことにこだわらず、それに加えて先を見て生きていくというのは、大切な資質かもしれない。父は前向きである。

父の振舞いを見ていて、これは「留まるのか新天地を開拓するのか」という古くからの問題の応用問題であると気付いた。デンマーク映画 「ペレ」で、老いた父は農場に残り息子は新天地を求めて旅立つ。留まるか進むのか、それは今の問題でもある。放射能で汚染された地域の人々は、切迫した形で現在この問題を突きつけられている。

そのうちに見えてきたことがある。どれくらい前向きの姿勢を貫けるかは、状況により変わるということ。この問いに対して一様に答えることはできない。

まずは年齢に応じて変わり得る。若ければ長い将来がある。よし、過去を振り切り転進しよう、という気持ちになりやすい。けれども、残りが限られてきたときにどうするのか。若者と同じことをするのは難しかろう。同じ問題でも、年代という時間の要素を加えてみると、答が変わってくるのである。

また年代という要素を加味しても、その上にさらに個体差がある。年代相応ではない行動を取る人も出てくる。その年代不相応が、年寄りの冷や水と映ずるか、周囲の人に勇気を与えるか、それはその人とそれを取り巻く状況で変わってくる。ここでも一定の答はない。

様々な態様がある、それこそが生きているということか。

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2012.03.02

失業常習者

いつものコンソート。5声のコペラリオから始めて、トマス・ルポに移る。彼のファンタジアがなかなか良くて、結局フレットワーク版の上巻18曲をすべて弾いてしまう。

最初の2曲は、典型的なイギリスのファンタジアとやや趣が異なる。普通のコンソート曲は2分音符や全音符でゆったりと始まるのだが、この2曲は、どの声部も始まった次の小節ですぐに8分音符が出てくる。いきなり全力疾走させられるようなもので汗をかく。しかし3曲目からはいかにも英国らしいコンソート曲で緊張がほぐれる。それに同じ作曲者の曲を集中して演奏すると、その作風というか作曲者の気質がわかってくる。興に乗りつつも、皆でゆったりと響きを楽しむ。

職場の同僚が日本人でないことは今ではごく普通のこと。しかも通信技術の発展で世界がつながる。その結果何が起きるか。

こんな話を聞いた。世界的な外資系企業の日本の事業所に勤めている人の話である。彼の仕事には日本の同僚がいない。同僚は海外の各地に散在していて、ネットを使ってやり取りをしながら仕事をしていく。

仕事について面と向かってあれこれ話し合える仲間がいないのは大変であろうけれど、それよりもっと大変なことがある。世界企業のことゆえ、組織再編は日常茶飯事。彼の仕事もいつインドや中国に移転するかもしれないというのである。世界的企業に働いていても、個別の仕事に分解すると安泰ではないということ。なるほど、これが今の世の中か、厳しくなっている、それが当座の感想であった。

しかし良く考えると、勤め人でない人にとっては「それがどうした」という話かもしれない。自営の人は常に仕事がなくなる危機にさらされているのである。俳優もその通り。ある役者さんが、若いとき一つ仕事が終われば即座に失業になる、自分は失業を何十回したかしれない、と言っていた。映画「トッツィー」でダスティ・ホフマンの演ずる売れない役者は、ニューヨークの役者は95%の時間失業していると憤懣を周りにぶつける。

勤め人であると、仕事があることを前提として、それがなくなることを心配する。しかし常に仕事があるわけではない人が世の中にはいくらでもいる。それでも生きている。すべきこと、そしてそれを工夫する余地はいくらでもあるということか。

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2012.02.24

航跡

今また新しき世界に旅立つ魂
青空に白き軌跡を描きて
輝ける光のごと

かつて聞くみははの言の葉
あま翔けるわが子を仰ぐ

今われ地に降り居て祈る
ま幸くあれ新しき光よ


.

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2012.02.23

人と人とのつながり

ヒューマン・セキュリティに関するフォーラムがあるというので出かけた。11 March in Context: Human Security Perspectives (http://unu.edu/events/2012/11-march-in-context.html)

ヒューマン・セキュリティとは耳慣れない言葉で、わかったようなわからないような概念であるが、要するに、大災害に伴う不安や弱者への影響に焦点を当て、どのように不安や恐れを取り除き、必要な食糧物資住居を供給するかを考えることのようである。元々は紛争地域での難民などの状況を述べるときに使われていた言葉であるが、自然災害の被災者の支援の分野でも使われるようになったのである。

昨年3月11日の東日本大震災から1年になろうとするが、まだ生活を立て直せない人が大勢いるうえに、地域社会も再興できないでいる。このようなときに、どのようにして人々の安全を確保するのか。それを東日本大震災だけでなく2004年12月のスマトラ沖地震、2005年のハリケーン・カトリーナ、2008年の四川省地震などを含めて大きな枠組みで考えようというのが、フォーラムの趣旨である。

災害の影響のし方は、社会や文化により変わる。先進国と途上国とを対比したときに、対応においてどこが同じで、どこが違うのか。また貧困にある者、女性や子供、高齢者、少数民族などは、災害の影響を特に受けやすい。どのような配慮が必要なのか。それらのことを、社会学者、哲学者、国際関係論、公衆衛生、支援の実践者などをパネリストにして、話し合おうというのである。

直前に知ったのであるが、主催者にメールを出して了解を取って出かけた。

会場の国連大学の大きなホールには100人ほど集まっていた。お膳立てはそこの研究者だが、中心人物はオーストラリアのメルボルンにある大学のポール・ジェームスという学者で、グローバル・コンパクト・シティというプログラムを主催している。それに早稲田も協賛。

フォーラムは、中心となるポール・ジェームスを進行役とし、6人のパネリストが並ぶ。立教の途上国支援の研究者、災害での女性の行動を調べているアメリカの女性研究者、スマトラのバンダ・アチェを調べているオーストラリアの研究者、国連の人道支援コーディネーター、災害時のモラルの本を出しているオレゴンの倫理哲学の女性学者、香港の災害および人道救援研究所の研究者が出てきた。

全パネリストが各自10分ほどの話をする。それぞれの専門とする分野の話であるが、プレゼンテーションの仕方にもう少し工夫が欲しかった。中身についても、各自がこの主題についてどのような問題意識を持ち、どのような仮説を持ち、それをいかに検証していくのかが、うまく伝わってこなかったのが残念である。

とはいえ、それぞれの発言の中に、おやと思わせるものが出てこないわけではない。それを聞きながらメモしていた。

各自のプレゼンテーションが終わり、20分ほど質疑応答が行われた。しばらく個別の質問とその応答があって一段落したので、こちらも質問をした。

今日は非常に興味あるお話を聞かせていただき、御礼申し上げます。日本では昨年東日本大震災を経験しましたが、それをそれだけに留めた議論にせず、世界各地の自然災害に対する人々の対応という大きな枠組みで捉えようとし、様々な専門領域の方の視点で論じられるのをお聞きして、大変刺激を受けました。

私はヒューマン・セキュリティという用語を初めて耳にしました。それには色々な定義があるでしょうが、私はこの言葉を「人を守るのは結局は人である」と理解しました。では具体的にどのようにして人を守るのか。今日のパネリストのお一人が、地域としてまとまった人々の強さ (Local Resilience) について触れられていたのが、大変印象的でした。これが「人を守るのは結局は人である」ということの一つの実践であると思います。

では、そのような共同体をなす人々の強さは、どのようにして形成されたのか、これを強化するにはどうしたら良いのか、それを伺いたいと思います。

進行役のポール・ジェームスが、深い意味を持つコメントとご質問を有難うございますと言い、活気付いたように香港から来た女性研究者が、教育と文化の必要性を述べた。コロラドの女性哲学者は人々の意識の観点からコメントをした。

文化による説明には循環論法の部分があり説明として弱いが、教育については検討する価値がありそう。では共同体としての強さを育てる教育とは具体的にどのようなものなか、それが何故強さにつながるのか。

それに対する解答の手がかりは、質疑応答のときに国連のコーディネーターの方がされた発言に潜んでいるかもしれない。この方は実際にボランティアとして東北の被災地に入った日本人の女性であった。彼女は、国連を初めとする各種組織の支援とその調整といっても、それは決して組織として動いているのではない、と言う。最終的には、誰が誰を知っているかという個人同士の結びつきになるのです、そう彼女が言ったのである。

人を守るのは最終的には人である。彼女の「共同体としての強さ」と「個人同士の結びつき」は、その核となる認識のように感ぜられた。フォーラムが終わってポール・ジェームスと話をしたが、基本の認識は一致していた。

グローバル・コンパクト・シティという言葉に思い当たるところがあり、あとで彼の仕事を調べてみた。都市はグリーンであるとした、スチュアート・ブランドと響き合うものを感じたからであるが、やはり二人は重なっていた。また彼はデイビッド・スズキを自分のプログラムに招いたりしていることも知った。

なるほど、この領域の人々は皆繋がっている。ここでも個人同士のつながりが大きな役割を果たしていた。

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2012.02.20

世過ぎと志操

3点のフェルメールの作品を含め、オランダの17世紀の市井の人々を描いた絵画をまとめて見る機会があった。フェルメールの「手紙を読む青衣の女」は、長い期間をかけた修復を終え、描かれた当初の鮮やかさを取り戻している。修復後、収蔵美術館に先駆けての公開という。彼の作品やそれ以外の多くの画家の作品を、苦労しないで鑑賞できるのは有難い。勿論それぞれの収蔵美術館まで足を運べば得るところはずっと大きいが、それをするのには、時間、体力、財力、好奇心が揃わなければならず、かなり難しい。

展示の中にヤン・ステーン (1626-1679)の「生徒にお仕置きをする教師」という作品があった。あまり勉強がよろしくないので、先生がしゃもじのようなもので男の子の手の平を打とうとしている。右手を出した子供はべそをかき、足元にはその子の課題の紙が落ちている。彼の不幸を喜ぶ女の子、さらにそれを眺める幼い子が横にいる。後ろでは自分のやったものを手にして待っている子や、机で紙に何か書いている子供たちがいる。壁にかかった石板を取る子供がいる(既に学校では石板だけではなく、かなり紙を用いていたことも見て取れる)。

1663-65年頃に描かれたもので、現在はアイルランドのナショナル・ギャラリーが所蔵している。作品に登場する子供のうちの3人は、画家自身の子供のカトリーナ、コルネリウス、ヨハネスであると同定されている。

ヤン・ステーンはユーモアのある風俗画で人気を博し、子どもを描くことに秀で、他にも学校を描いた作品がある。その絵を見ていて、20世紀のアメリカで大きな人気があったノーマン・ロックウェルを思い出した。少し軽い商業主義の匂いを感じたのである。

ロックウェルとの類似を感じたが、これは単なる符合ではなかった。調べてみると、ジョン・ホプキンス大学のロックウェルの研究者(Richard Halpern)が両者の関係を指摘している。この人は、ロックウェルがヤン・ステーンなどの17世紀オランダの世俗絵画に着想を得ているとして、この絵についても言及しているのである。

ヤン・ステーンの絵を見た当座は、大衆の人気を得ようという意図があるのではないかと感じた。しかし、そのうちにこれを作為や商業主義のあざとさと言っては気の毒かもしれないと思い直すようになった。彼について書かれたものには、自分の家の雑然とした様子をそのまま絵とし、いくつかの自画像にも気取るところがないとある。同業者からは尊敬されたという。

そのようなことを知れば、彼は人々の混沌をそのままに受け入れ、人間に対する興味と愛情を表現したとする方が自然かもしれない。またロックウェルが公民権運動を支持する黒人の女の子の絵を描いたように、ヤン・ステーンも正義の観念を秘めた上で風俗画を描き続けた可能性がある。それは弁護士を訪ねた依頼人を描いた別の絵にも見て取れる。一見すると日常風景のようであるが、仔細に見れば弱者に付け込む専門家に対する静かな批判になっているのである。

身過ぎ世過ぎのために商売をしているように見えても、商業主義であると性急に断定してはならない。そのような人のすべてに志操がないという訳ではないのである。年代によっても考えは変わる。調べてみてヤン・ステーンという人が少し身近に感ぜられるようになった。

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2012.02.17

弱肉強食の社会

宋代の権謀術数で思い出した。二昔も前であったか、確か黄土の舞う僻陬の山村であったと思う。その農家は娘を教育してやりたいのに寒村のこととて十分な現金収入がなかった。その裏手の上の家ではタバコの栽培が当たり金回りが良くなっていた。両方の家はもともと不仲であったが、これがために下の家では尚のこと反発心を強めた。

そのようなときに、両家の間の土地が競売に付されることになった。貧しい下の家では娘の教育にかかる現金収入を得るため、そこが是が非でも欲しい。苦心惨憺してその資金を用意した。

村での競売の日。問題の土地の競売が始まる。他に競争者がなければ下の農家のものになる。そこにタバコで利益を得た上の家の男がやってきて、「どれ、その土地はいくらだ」と尋ね、予想価格より高いものを提示する。下の農家の男はそれを上回る値段を出さざるを得なくなる。必死な下の男となぶるような上の男が、数秒の間に価格を競ること両度。上の男は「まあ、ここで勘弁してやるか」と引き下がる。下の男はその土地を得たが、当初の予想を大幅に上回る金額を費やすことになった。

上の家の男は、何故に競売で無益と思われる干渉をしたのか。取材のカメラに答える。「あれで借財が膨らみ、いずれ家全体がこちらのものになる」と。隣家の苦境を知りながら、敢えて干渉することにより、下の家の負担を大きくし、労せずしてその家屋敷すべてを手に入れられると計算しているのである。恐るべし。

数ヵ月後、下の家では収入を補うため、男が家族を置いて都会に出稼ぎに行くことになった。

そこに暮らす人間を慮外とし、熟柿の落ちてくるのを待つ上の家の男の計算された冷徹さ、いや酷薄さに驚く。母もこの番組を見ていて、「あの男に底知れぬ恐ろしさを感じた」と話したのを思い出した。そのような人間がいる。残留孤児を育ててくれた養親たちとはまったく異なる人間がいる。弱肉強食の行動を実見することが多くなれば、人々はそれに応じた行動様式を身に付けるようになるのであろうか。

ふと思い出した光景を書き留めておくのは、外の国のこととしての興味ではなく、人間の本質を考えさせる挿話であるからである。そしてそれは単なる人間認識の問題に留まらず、自己の身を守るため、さらには自らが上の家の男とならぬための戒でもある。

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2012.02.16

「名臣」言行録

『宋名臣言行録』は北宋(960年~1127)時代の政治家、高級官僚の言行録である。朱子学の祖である南宋の朱熹の編纂というが、多くは当時の随筆、史書、行状記、墓誌銘に基く。また全5集合計75巻のうち朱熹の編纂は初めの2集だけで、あとの3集51巻は南宋末の李幼武の手になると言われる。

扱われているのは宋代の政治家や官僚であるが網羅的ではなく、王安石系の新法派は、王安石本人を例外としてすべて除かれている。表題には「名臣」とあるが、採録されている人々は必ずしもそれに値するわけではない。政敵と権力を争い、賄賂を取る者、使う者、君主に諫言をし、地方に左遷される者、或いは自ら地方の知事に退き難を避ける者、清廉潔白を通す者など様々である。しかしそれ故にこそ、現代の中国の人々に通ずる行動、裏の裏を読むような処世に尽きぬ興味がある。

たとえば竇儀(とうぎ、914~966)。開宝年間の翰林学士。当時趙普が宰相で専権を振るっていた。太宗はこれを患い、趙普の落度を聞きたかった。ある日、竇儀を召して、話題は趙普が不法なことばかりしていること、竇儀の才能を早くから嘱望していることに及んだ。しかし竇儀はそれに乗らず「趙普は建国の元勲であり、公平忠亮で社稷の臣である」と盛んに言い立てたので帝は不機嫌になった。

竇儀は帰って酒を注がせ弟達に言った。「自分は宰相になれないが、海南島の辺境に流されることも無い。我が一族は安泰だ」と。

太宗は竇儀の次に同じ翰林学士である盧多遜を召出した。盧多遜は趙普に恨みがあり、なおかつ自身の出世を願っていた。そのため趙普の短所を攻撃した。その結果、趙普は宰相を罷免され、生命も危うかったが、昔の功績があったので禍を脱し、河陽の知事に左遷された。盧多遜は参知政事から宰相となった。

しかし太平興国七年、趙普が宰相に返り咲くと、盧多遜は海南島に流されることとなった。竇儀の言葉どおりとなったのである。

或いは張詠(946~1015)。将来の大臣と期待されたが剛直であることが災いして挫折。地方官として優れ言行に富む。その彼が陳州にいた頃のこと。

食事中に官報が届く。食べながらそれを読み卓をたたいて慟哭し、指を弾じて罵倒する。彼の属する北方派の領袖寇準が南方派の丁謂に逐われたからである。そこで張詠は禍が自らに及ぶことを予測し、意図的にイカサマ博打を行い悪評を撒いた。多少の悪評でどこかに左遷されれば大難を避けることが出来るというのが張詠の読み。しかし丁謂はこれを聞いても害そうとしなかった。敵の丁謂はその手に乗らなかったというわけである。

朱熹は、張詠の韜晦は知者のやることで、賢者のすることに非ずと評する。賢者には義があるだけ、禍は不可避で避けようとしてはならないというのである。

朱子学の祖の評言はひとまず措いて置くが、彼等の行動を読んでいると、中国の政治の裏面で人はどのような思考法をとるのかが伺える。それは現代の中国を読み取る上でも有効である。このような思考法が通用するところは中国以外あちらこちらにあるであろう。

中国の次の最高指導者としての地位を固めている習近平国家副主席は、現在アメリカを公式訪問中である。その彼に連なり最高指導部入りを目指す薄煕来書記の側近が突然職を解かれた。汚職が原因で失脚したと言われている。この側近は薄書記がかつて省長を務めた東北部の遼寧省から重慶市に移る際、公安局長に抜擢して連れてきた右腕である。

やがて共産党大会が開かれるが、大会前には最高指導部の内部で激しい政治闘争が繰り広げられるのが常という。そのため、中国のネットや香港の新聞には、事件についてさまざまな情報が流れているとのこと。「汚職疑惑で失脚し当局に拘束された」というものから「アメリカへの亡命を求めたが断られた」という臆測まで出ている。http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/0214.html

宋代の「名臣」の言行を見ていると、激しい権力闘争とともに、蓄財殖財や多少の汚職も当然とするところが見えてくる。勿論清廉の士がいないわけではないが、総じて日本の感覚とはかなり異なる。汚職が罰せられるのは、それが一般水準からかけ離れているか、政治的意図があるからと考える方が順当のようである。とすれば、習近平に関係する人物が現在涜職の罪に問われていることに関し、中国の人々が様々な推測を行うのも首肯できることである。

『宋名臣言行録』に登場する人々のものの考え方や行動様式は、この書名に因み後代の日本で作られた岡谷繁実の『名将言行録』に出てくる人々のものとは随分異なる。しかし、閑雅な清談とは対極の、権謀うずまく中で熾烈な争いをする士大夫たちを記録するがゆえに、『宋名臣言行録』は彼の国の今の人の動き方について実に多くのことを教えてくれるのである。

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2012.02.06

暴力と市民社会

同窓会報というのは、どこのものでも丹念に見ていくと興味ある話が掲載されている。ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジの学寮長を務めたアマルティア・センは、そこの同窓会報に「暴力と市民社会」という話を書いていた。これは2009年に同大学で行った講義をもとにしたものである(Cambridge Almni Magazine Issue 64 Michaelmas 2011)。

(その意思さえあれば、今は様々な形で優れた知性の持ち主の話を見聞することができる。この話は、"Peace and Democratic Society"と題する本の一部としてOpen Book Publishers www.openbookpublishers.comでも読める。さらに彼の話を色々なサイトで聞くこともできる。便利になった。)

彼の主張は、戦争やジェノサイドやテロリズムといった組織暴力の原因は、「文明の衝突」や「貧困と不公正」などといった単一の要素に帰すことが出来ないというものである。それは様々なアイデンティティーを認める彼の人間観に基づいている。人間の多様性とは、世界には多様な人がいるという意味であると共に、同じ人間の中にも様々なアイデンティティーが共存しているという意味でもある。

セン教授は、暴力を回避するのは軍事力ではなく民主的な対話であるとし、その上に人が短時間に変わり得ると存在であることと併せて、暴力を排した平和的社会が可能であると説く。人間は短時間で変わり得る。それは良い方向にも悪い方向にも。悪い方向への変化は、セン教授自らがインドとパキスタンの分離の頃の人々の変わりようを挙げている。それでいながら尚も彼は、人が良い方向にも短時間で変わりうるとして、未来に希望を託すのである。

アマルティア・センの、人のアイデンティティーの多様性を認めようとする話には、自分の体験で得た人間観との幸せな一致がある。また同時に、かつての渡辺一夫氏の寛容に関する一連のお話も思い出すことになった。

センの行文は圧縮されていて読むのに集中力がいる。概念同士の直接的な結びつきを理解するためには、多くの言葉を補わなければならない。現在の日本語にしたらどうなるか、以下にその試みを付してみる。どれだけ明瞭な表現にできるか、色々試したことも面白かった。

暴力と市民社会 アマルティア・セン

現代の世界にはテロリズムと政治的暴力が満ちているが、近年そのような災厄を除去しようと多くの試みがなされている。ときには軍事力が素早く動員されるが、その動員について十分な正当化がなされていない場合もある。

しかしそのような集団暴力に対処するのが、まず軍事力というわけではないし、その専管事項でもない。軍事行動が限定的には効用があることについては争わない。しかし、今日の世界に存在する組織的暴力とテロリズムに立ち向かいそれを克服できるのは、国家レベルでも世界レベルでも、市民社会なのである。

組織的暴力を排除するためには、なにをすべきなのか。それは広い意味で民主主義の一部となるもの、つまりジョン・スチュアート・ミルが分析した「議論による統治」である。それは単に投票や選挙というような個別の民主主義の制度の集まったものというだけではなく、対話であり、情報の自由であり、制約のない議論である。市民社会により平和を実現するというときは、これらが中心的な役割を果たすのである。

まず正さなければならないのは、混乱して紛争の原因となりがちな世界の読み方である。私たち人類は、国籍、言語、宗教、職業、近隣地域、社会的関与、その他のつながりなど、誰もが様々なものに属しているのであるが、その中の一つだけを重要なアイデンティティーとして区別すると、集団の間に暴力が生じてくる。

このような考えをするのは、テロリストなど集団的暴力を事とする徒だけではない。西側社会で宗教の違いを重視する者も、紛争を不可避の「文明の衝突」と見ることによって、この考えを支持することになる。仮に善意であったとしても、宗教間の対話拡大に慎重であることは(今はそれが主流であるが、アイデンティティーがいくつもあり、社会関係がいくつものチャネルで成り立っているという大きな図柄を明確に認識していない限り)、市民が言語、文学、文化機能、社会的交渉、政治的信条など、その他の関係性を持つことを阻害する。

文明の衝突という考え方の基礎には、歴史を人為的にゆがめて見るところがあり、異なる土地に生育する木のように、それぞれ固有の「文明」が別個に発展してきたと考えているようである。文明論的アプローチは、世界の歴史の多くを捨象しているだけではなく、人間のアイデンティティーを語ることにおいても実に粗雑である。その結果は大変なことになりかねない。個人の争いが、相異なる文明間の敵意と解釈されてしまうのである。

世界の暴力が文明に由来するとする説明の基礎には、人間のアイデンティティーを単独とする見方がある。人間が一つのグループにのみ属すと考え、生まれ落ちたところの文明なり宗教だけでその人間が決まると見ているようなのである。しかし実際には、単独由来の考えでは、世界のほぼすべての人を誤解することになる。私たちの普通の生活を見てみれば、自分がいくつものグループのメンバーになっていて、そのすべてに属しているのである。同じ人間が矛盾することなく、南アフリカの市民であり、アジアの出身であり、インド人の先祖を持ち、キリスト教徒であり、社会主義を信奉し、女性であり、菜食主義で、ジャズを演奏し、医師であり、女性擁護論者であり、普通の結婚をし、なおかつ同性愛者の権利を守り、目下最大の課題は南アフリカをどうしたらクリケットの世界チャンピオンにできるかと考えることが可能なのである。

個人にとっては、このようなアイデンティティーのそれぞれが大切なことで、重要度は現在抱えている課題や選択した状況によって変わってくるし、アイデンティティーの中での優先順位は、その人の価値観や社会の圧力によっても影響される。宗教、コミュニティー、地域、国、世界など、どのような文明のアイデンティティーを持とうと、あるアイデンティティーがその他の関係のどれよりも優先すると考えることには、根拠がない。

従って、世界の暴力を「文明の衝突」というレンズを通して理解しようとする考えは精査に耐えられない。理由付けはあまりに根拠薄弱である。それなのに、単一のアイデンティティーの信奉者により、世界中で「作られた流血」の事態が引き起こされている。この人為的な操作は、多くの場合、相違を排除するという形態をとる。

子供の頃を思い出す。それはインド独立直前であったが、ダッカとカルカッタ、その他の都市で、1940年代の印パ分離の政治の動きにからんで、ヒンズー対ムスリムの暴動が突然起きた。政治が共同体内での差別を徹底したため、平和であった人々は戦闘的なヒンズーとムスリムに急速に変わっていった。このような紛争が自然的に発生したとか不可避的に発生したといったものでないことは、その後のバングラデシュと西ベンガルの分離では、平和的で寛容で政治に宗教が関わらなかったという歴史からも明らかである。東パキスタンでは、暴動の続いた数年間といえども、言語と文学によるアイデンティティーが宗教的セクト主義のアイデンティティーよりも強かったために、バングラデシュとなって宗教と切り離された民主主義的な政体ができると、そこのムスリムはそれをすんなりと受け入れた。良きイスラム教徒であることと、ベンガルに忠誠を尽くすこととに矛盾はなく、すべての人に宗教的な自由が与えられたのである。

文明や宗教やコミュニティーが衝突するのは必然であるという主張は打破しなければならないが、そのことはひとまず措いておく。宗教上の違いが今日いかに大きいように見えても、それ以外の相違からも対立や虐殺が生まれてくる可能性があるのである。

たとえば、1914年から1918年の間の、欧州での血で血を洗う争いでは、国家や愛国心に訴えかけがなされ、キリスト教という同じ宗教を信じていても、ドイツ、イギリス、フランスは戦いをやめなかったのである。しかし今日ではドイツ、イギリス、フランスは平和的に交際し、欧州で決め事をするときに、武器に訴えることはなくなっている。

ひとまず文化的アプローチについてはお仕舞いにしよう。では他のアプローチ、政治経済からのアプローチはどうか。このアプローチでは、貧困と不平等が暴力の原因になると見る。不平等による不公正が不寛容を招き、貧困の苦しみが怒りを呼び起こすかもしれないというのは、考えられない話ではない。世界にはアフガニスタンからスーダン、ソマリア、ハイチまで、貧困と暴力の二重苦にある人々の例が多数ある。

確かに貧困は人々を絶望の怒りに追いやるかもしれない。不公正という感覚は、叛逆、それも血なまぐさい叛逆の十分な理由となるかもしれない。しかし貧困と暴力は単純に結びつけられるであろうか。貧困が集団的暴力の原因であるという主張は、経験的に見て粗雑すぎよう。二つを結びつけるのは、広く見られる現実にそぐわない。貧困と暴力に関連するその他の要素がいくつもあるからである。

インドの中で、というより世界の中でも、極めて貧しい都市、カルカッタの事例は示唆に富んでいる。そこでは犯罪率が非常に低いのである。実際には、重大犯罪について見ると、貧しいカルカッタがインドの都市の中でも最も低いのである。また、インドの都市は全体としても、世界の標準からすると暴力犯罪が著しく低くなっている。またカルカッタの自殺率は、インド国内ばかりではなく世界でも最も低くなっている。

勿論カルカッタの貧困を根絶し、住宅問題を解決するには、長い道のりが必要である。犯罪率が低いからといって、これらの問題がなくなるわけではない。しかし注意しなければならないこと、というより喜ぶべきことは、貧困であると自覚したとしても、暴力が不可避というわけではなく、政治的動きや社会や文化の相互作用とは関係ないということである。

貧困であっても平和で平穏であることは可能である。貧困と暴力を短絡させる思考には何かが欠けている、そう気付かねばならない。貧困になると既成の法規を否定したい気持ちが生まれるが、そうであっても特に暴力的に何かする動きが人に生まれるわけではない。

極貧になると、経済的に無力であるだけではなく政治的にも無力化する。極貧では戦うこともできないし、抗議の叫びを挙げることすらできない。極端に貧困な人は、驚くほど平和的で森閑としている。たとえば1840年代のアイルランドの飢饉では、人々は非常に平和的であった。飢饉が発生した時点では、アイルランドの人々が特に従順であるという評判はなかったが、起きてみると飢饉に際しても人々は秩序があり平和的であった。

けれどもこれによって、アイルランドの飢饉のときにの貧困や飢餓や不公平が、アイルランドの暴力に対して長期的な影響を及ぼすことがなかった、ということにはならない。不公正な取り扱いを受け、無視されたという記憶によって、アイルランドの人々はイギリスは自分たちとは違うと感じ、1世紀半以上に及ぶイギリスとアイルランドの関係史が血なまぐさいものになる原因となったのである。経済的な貧困によりすぐにも反乱が起きるわけではないかもしれないが、それであるから貧困と暴力とは無関係と考えるのは誤りであろう。

中東での経験にも似ているところがある。この数十年の中東の困難な状況はかつてと変わらないが、それには様々なことが影響している。世界の指導者がこの問題をはっきりと考えられないことも含めて。しかし色々ある中で、植民地時代に西洋の大国が中東を不当に取り扱った記憶を無視するわけにはいかない。新たな主人として諸国を服従させ、思うがままに国境を定め、さらにまたそれを決め直したのである。そのような力の濫用で19世紀には反乱が起きなかったが、征服された人々の沈黙は、踏み付けによる見せ掛けの平和であった。不当な取扱いの悲惨な記憶が失われることはなく、その問題が永久に解決したことにはならない。

貧困と不公正から暴力が生ずるという関連は、差し迫った問題とはならないかもしれないが、やはり強いものでその関連の可能性が否定できないとすると、貧困と不公正という要素にアイデンティティーと文化の要素が加わったときのことを検討する必要がある。アイデンティティーなり文化から暴力が生ずるという命題と、貧困や不公正から暴力が生ずるという命題とは、二者択一で競合するものではないからである。

貧困と不公正は、暴力を助長しそれを日常化するのに一定の役割を果たしているはずである。しかし貧困を社会や文化から切り離してみるのではなく、社会の他の特質との相互作用として検討する必要がある。

アルカイーダが西側を対象に行っていることは、いかなる理由でも正当化できないが、植民地主義者が過去にした不平等な取り扱いが引き金になっていることは事実である。過去のことは今の暴力を正当化する理由とはならないが、人々を盲目的な怒りに駆り立てるのである。

人間は軍事力、政治力、経済力の不平等には満足しない存在である。不平等が、軍事力の差によって生じないとしても、不満は生ずる。たとえば、世界的に何億もの人々が経済の発展や社会の進歩に取り残されたとき、あるいは経済メカニズムがうまく機能しないことにより、生命を助ける薬を最も必要とする人に提供できないときなどである。

集団暴力を考えるときには、テロリズムや殺人は勿論犯罪行為であるとのの理解を基礎として、効果的な安全対策を施す必要がある。しかしそこで考えが止まってはならない。様々な社会政策、経済政策、政治的施策は、暴力とテロリズムがそれに加担する兵士と心情的な同調者を集めようとするときに用いる彼等の主張を打破するものでなければならない。

文明の衝突という理論やすべての原因を経済に還元する経済還元主義の主張は、今日世界で起きている暴力を理解するために欠かせない、文化的要因や社会的要因や貧困と不公正の要因を排除している。これらの要素はそれぞれが単独で動くのではない。全体像を得るために大切な他の要素を無視して、一つの要素だけに集中すれば本質が見えるという短絡的な考えには、抵抗していかなければならない。平和で秩序ある社会を作ろうという人類の努力は暴力により否定されてきたが、そのような原因となる暴力の前例は克服できないものではないと考えることが最も大切であろう。

相互理解と社会の機能の仕方との間には関係がある、そのことがしばしば忘れられてきた。南アフリカの反アパルトヘイト運動を指導してきたネルソン・マンデラやデズモンド・トゥトゥ大司教の政治信条がなければ今日の南アフリカで和解はなく、暴力的な復讐に満ちていたであろう。同様に20世紀前半の二つの世界大戦を見れば、1914年から1918年の間に塹壕や戦場で多数の兵士の生命が失われ、1940年代には多くの都市に対して絨緞爆撃が行われた。しかし戦後数年のうちにものの見方が変わり、そのような大虐殺が全く時代遅れになったのである。

これらを総じていえることは、現在はとても実現不可能と思われることが、私たち自身の努力により実現可能で、明日には日常のこととなる可能性があるということである。ナディン・ゴーディマーの『書くことと存在すること』で引用されているプルーストの言葉に勇気付けられる。「やりすぎと恐れることはない、真実はその向こうにあるのだから。」このような認識が大切である。特に、混迷する世界で安全に暮らせないと人々が落胆している今の世の中では、尚更のことである。

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2012.01.22

カラヤンのレクイエム

久々にモーツァルトのレクイエムに接した。1986年カラヤン指揮ウィーンフィルとウィーン楽友協会合唱団の演奏を映像化したもの。もう四半世紀前のものとなる。この頃、モーツァルトのレクイエムを色々な機会に聞くことがあった。少し音楽に親しみを感じている人はこの楽譜を眺めた経験があった筈である。

カラヤンの演奏するレクイエムは大編成で壮麗。男性は黒の蝶ネクタイ、女性はたっぷりしたドレープのスカーフで身を包みギリシア神話の女神たちを思わせる。指揮も合唱も暗譜。カラヤンは偉大な神のように指揮をする。演出も整然としている。映像作りのために、彼は重なって映し出される楽器の角度にまでこだわったと聞いた覚えがある。

カラヤンには独自の美学があり、その美学の故に当時もカラヤンよりベームのものを好むという人が多かった。今改めてこの演奏に接してみるとその評も尤もと思う。統率がとれ神々しく、その場にいれば感動することは間違いない。素晴らしい演奏であり、演奏それ自体で評価すれば良いのかもしれない。しかし音楽の中に身を置いて至福の時間を味わうというのではなく、距離を置こうという気持ちが生ずることを否定できないのである。それは一体何故なのか。

仮に演奏を、音楽それ自体とその表現との2つに別けてみるとどうなるか(実際には両者は不可分であるが)。音楽の中に没しきれないのは、モーツァルトの音楽自体ではなく、カラヤンの表現にあるのである。

表現とは楽譜に書かれた音符を実際の音にすることであるが、それは自分が達成したい美や効果を考えて、テンポ、強弱、音色、その他の要素を決め、演奏者を統御する過程とも言える。その統御の部分にカラヤンの考え方が反映される。音楽を他の外界の事象と結びつける必要はないかもしれないが、彼の美意識に貫かれた整然とした統御の仕方は、歴史上の記憶として残るある時代の人々の行動に通ずるものがあるように思う。このようなやり方でワーグナーを演奏したらどうなるか。

モーツァルトのレクイエムはそれ自体で素晴らしい音楽である。表現された音楽は、そのままで人の心の中に深く訴えかける。自然でいいのである。それを意図的に強めるような演出は不要。カラヤンの演奏が持つ崇高な雰囲気には、人間の感動を操作するというような作為がやや感ぜられる。そのために、これは人の理性を麻痺させ、原理主義の宗教や一定の政治的教義に結びつくのではないかと疑念を抱かせるのである。彼にその意図が全くなかったとしても。

距離をとるような感じの由来を良く考えてみると、このようなところであろうか。

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2012.01.18

家族の写真

かつて父方の親族で上京した者が折々に集まっていた。会食をしたりピクニックに行くこともあった。そして故郷の話やうからやからの話をするのである。宴が果て最後にはお国自慢の県歌を歌う。学校のコンパに近いところもあるが、郷土に愛着を持つ親族が相親しみ結束する場であった。

しかし同郷人の結束は、時として異なる要素を排除する傾向を持つことにもなる。一人他郷で育ったが故に、そして何より動物的な匂いが違ったからであろうが、自分はその集まりではやや異分子であった。県歌をよく知らず肩身の狭い思いをしたことがある。まあそのうちに歌詞の一番位は歌えるようになったが。

昔学んだ大学の法学部の教授の多くは、そこを卒業するとそのまま助手となりそこの助教授から教授となっていた。今も余り状況は変わっていないようであるが、まあ純粋培養である。就職した組織でも状況は似たようなもので、役員の履歴を見るとその多くが同じ大学の同じ学部の出身者であった。

このような中で生まれ育つと、純粋なものが良いという観念が無意識のうちに形成される。しかし世界はそうできているのであろうか。本当にそれで良いのかしら。

年末にケベックのベルナールからクリスマスカードが来て、しばらく近況についてやり取りをした。話をしていたら、彼の昨年の大きな行事は、再婚した奥さんの子供・孫たちとベルナール自身の子供・孫たちとが、夏に一同に会したことであるという。肩を組み満足そうな表情をした人々の写真が送られてきた。それを見ながら、自らの生まれ育った環境と引き比べて、「ああ、これは随分違う」そう感じた。

(この話は、「日本人が純血主義であり、欧米人が異質なものに寛容である」という一般論を述べるものではない。多少その傾向があるとしても、それですべてを説明できるものではない。国や文化の違いと言うだけでは、説明にならないであろう。国や文化が違うという説明は、言葉を変えた循環論法に過ぎないから。たまたま自分の生まれ育った環境と、ベルナールの家族を巡る環境が違うということにすぎない。どこにでも同じ血族で一致団結し内外を峻別する人々もいるし、境界という枠組みを超えて相対的にものを見ることができる人もいるのである。)

では「ああ、これは随分違う」と感じたその感覚をもう少し仔細に点検してみるとどのようなことになるのか。彼らは自分とどこが違うのか、そのような違いは何故生ずるのか。それを考えていくと、人間の持つ傾向の一端が見えるかもしれない。

まずは、どこが違うのか。

違うという直感的な印象を言葉にするとすれば、「ベルナールのところでは、身内とする境界をかなり広げて考えている」ということになるであろうか。それが自分の生まれ育ちと違うところである。彼らは直接に血が繋がっていなくとも、実は大きなところで何かしらの連帯を感じているのかもしれない。人間は誰しも身内とそれ以外とを区別するが、拡大家族会を開いたベルナールたちは、その身内の概念を広くとっているような気がする。

ベルナールたちに境界がないわけではなかろう。どのような社会にもある。かつて柳田國男などの民俗学の影響で、ウチとソトの区分は日本固有のものと思っていたが、そのようなことはない。古今東西を問わずどのような社会でも、その構成員を他から区別しているのである。けれども、その区別の境界線が彼のところではかなり外側に広がっているように感じられる。

では、境界を広げるというのは、どのようなことなのか。

境界というものは、いくつもの同心円の重なりのようになっているのかもしれない。境界を広げるとは、その同心円の内側から外側に向かい、遠心的に外延を広げることである。それにより多様な要素を包摂することになる。ただこのときには、単に境界の縄張りを少し伸ばすというのではなく、質的に異なる操作が行われているような気がする。つまり境界を設けるための基準の次元を変え、異なる要素を包摂する概念を考え出しているのではないか。より高い価値を基準とすることで、初めて境界が広がるのである。

身内についてこの考えを適用すれば、血族ではなく同居しているかを基準にする、或いは同居の有無にかかわらず同じ価値を分かち合えるかを基準にする、というような思考を導入するということになる。さらに愛犬だって身内だよ、というようにより多くを包みこむ概念を作ることもできる。「たとえ○○であっても、観点を変えて○○とすれば、いいではないか」という論法も、境界を広げる操作である。ベルナールたちは、無意識のうちにもこのような考え方をしているのではないか。

逆に境界を縮めていくとどのようになるのか。

境界の縮小とは、均質化ということができるかもしれない。同じ国の人で揃える、同じ地域や職場や学校の出身者で組織を固める、同族会社にするというような行動であろうか。

しかし人間社会で真の均質化があるのか。背の高さ位は揃えられるかもしれないが、ものの考え方や行動様式はそれぞれに異なる。人間は様々な基準によって切り分けられるのである。Ein Volk, ein Reich, ein Führerという標語がナチスドイツにあったが、その北方人種を優越人種とする説はその当時でも学問的には破綻していた。どのような集団にも色々な要素が入っている。兄弟姉妹の間でも気質や行動様式は違う。人間を含め生き物はすべて多様であって、工業製品ではないのである。

仮に均質な集団があったとすれば、そのような集団では思考が画一的になる。社会が安定していればそれでも機能するかもしれないが、世の中はそれほど安定したものではない。社会の変化に合わせて集団は常に考え方や動き方を変えて対応していかねばならないのである。そのような対応は、均質な集団より多様な構成員を持つ集団の方が、発想に広がりがあるため、うまいのである。

境界を広げることと、境界を狭くしていくことと、どちらを選択するのか。それは各自の判断である。

同じ仲間と連帯感を示すときに、その仲間の定義を吟味する必要がある。一方では「あいつも俺と同じムラの出身だ」というように限定することがある。しかしそれではまずかろう。それがどうしたのか、と問われたら何と答えるのか。そうではなく、上位の概念で統合して共通するものを見つけていけば、仲間の概念が広がる。皆が同じ人間として仲間なのである。

では違いは何に起因するのか。違いとは2つ以上の比較により気付くことであるから、これを言い換えれば、一方で境界を広げる動きはどのような環境で生ずるのか、他方で境界を狭くしようとする動きはどのような環境で生まれるのか、その理由を対比的に説明するということである。これは、それぞれの集団の気質とそれを取り巻く環境の合成物であるので、簡単には説明できない。

今の段階では、一方でベルナールたちの日常が接している人々や世界が多様であるのに対して、他方の我が父祖の世界は同じムラ(とは村であり、出身校であり、職場であり、住んでいる共同体のことであるが)の中で完結しているから、としておこう。つまり多様な世界では境界を広げやすいが、均質な世界では境界を狭くする傾向があるような気がする。しかし、これは説明になっているのか、循環論法に陥っていないか。もっと考えねばならない。

ただ、この違いは決して固定しているものではない。純血主義と見えた大学ですら、明治初期にはお雇い外国人たちが招聘されて教えていたのである。純血主義は必ずしも牢固とした伝統ではない。閉ざされたように見える共同体でも、代替わりで意識は変わってくるし、隣近所に新しい人が来れば、それだけで意外に簡単に変わるのである。その意味では人間の柔軟さについて、自分は楽観的である。或いは身も蓋もない言い方をすれば、人間は個別でも集団としても必死になれば変わらざるを得ないのである。

ベルナールの家族の写真は、このような頭の体操をする良いきっかけであった。

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2011.12.13

古い人々の記憶 1

父が転倒して骨折をしたため実家に来ている。大腿骨頚部骨折という診断で、多くの老人の転倒による骨折がこれによるとのこと。いずれと思っていたが来るのが早くなった。人は生まれ落ちた時に世話をされ、いつか世話をする番になり、また最後に人の世話になる。それぞれは巡り合わせ、そして順番である。

入院中はまだ良いが、父が退院すればこちらが面倒を見ることになる。それが長期となるのは覚悟のこと。昨年の母の看護の時にここでも仕事ができるようにしてあり、それをそのまま残してあるのはこのためであった。母の部屋で仕事をし、そこに床を延べて起居することになる。家にいるのは自分だけ。仕事場となった母の部屋に入ると、何度となく「お母さん」と声に出す。

部屋の人形などを飾ってあるケースの中に、母が和紙に包んだものを見つける。中には手紙と戒名を書きつけたものが入っている。

便箋を折って作った母の手製の戒名札がある。これはすべて母の字で

常香院敢徳恒心諦観居士
常香院敢徳恒心諦観居士

と二回書き、裏には「三井恒男 かぞえ五十八才/没五六年四月四日」とある。母の兄である。

それとは別に、茶色に変色した一枚紙の戒名の書きつけがある。

昭和十七年
空 玉峰貞潤大師
七月廿四日

と書かれ、峰の字を中心に朱印があり、上部に天蓋、下部に蓮の実の黒の印が押されている。一枚紙であるのは、年忌供養のために作られたからかもしれない。その左下隅に「三井恒男、年の生母の戒名/昭和二〇年頃祖母トヨより一二母がもらう」と母の手で書いてある。

そのお札はこれまた茶色になった一回り大きな厚紙に貼られている。お札のすぐ左下に「昭和五六・八・十六漆戸より持って来て供養する」とある。もらった一枚紙を母か一二かが厚紙に貼り、それを位牌代わりに仏壇の中に納めていたのではないか。変色は線香に燻されたためであろうが、元の一枚紙よりは黄ばみが少ないのは、紙質の違いとともに作られた年代そして燻された年数の違いであろう。それを母は兄を看取ったときに実家から持ってきたのである。

お札の左下の角のすぐ隣になる厚紙の所には「私が死んだらこれをお盆の時にでももやし去って下さい。(年)」と母の字で書いてある。

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2011.11.23

言葉の力

ダン・ギルモアというコラムニストが、ガーディアンで言葉について書いている(Occupy language: the struggle over meaning)。これはウォールストリート占拠デモで始まった、既成体制への抗議行動に関連して書かれたもので、表題も、抗議運動のOccupy Wall Streetというスローガンに掛けてある。

彼の主張は、権力と富を独占する体制に対して抗議をするばかりではなく、ジャーナリズムにも抗議すべきであるというものである。ジャーナリズムに何を抗議するのか。それは、ジャーナリズムが体制の使う言葉をそのまま用いることでその支配に加担しているという事実に対してである。

例えばearnという言葉である。この言葉には金銭に関わりなく報われるのに値するという意味があるが、それをウォールストリートや金融で莫大な利益を挙げた者の報酬にまで使うのはおかしいと指摘する。或いはworthという言葉。これも同じで、濡れ手に粟の経営者に使うべきではないと主張する。事実を曖昧に糊塗するような用語ではなく正確で中立的な言葉を使うべきであるというのである。

言い換えはこのほかに「賭け事」を「ゲーム」とし、「拷問」と書かず「高度の取調べ技術」と書くなど、様々にある。グアンタナモの「被収容者」は有り体に言えば「囚人」なのである。国が「無償」交付するというが、それは自分たちの税金の分配に過ぎない。そのような言葉は、端的な事実を隠蔽している。

当事者がそのような言葉を用い事実の隠蔽をしているときに、報道する者までがそのような言葉を使うことは、隠蔽に加担することになる。人々はこのような報道の姿勢に対しても抗議をすべきであるというのが、ダン・ギルモアの主張である。彼の言うことは道理に適っている。

このような報道機関の迎合はどこの国にもある。日本にもある。負け戦のときの「転進」とは詰まるところ「退却」なのである。朝三暮四は単に順番を変えた目くらましであるが、これらの言い換えは欺罔である。

そして彼の主張に頷けば、次には自分が日々使う言葉を顧みることになる。己がそのような言動をしていないか、端的な用語で平易な表現をしているのかと。

虚飾を排した平易な表現は、事物の本質を明らかにし正しい認識に密接に関わっている。知性における言葉の役割は極めて大きいと言えよう。開かれた社会は、平易な言葉で事実を確認することから始まる。

しかし飾らない平易な表現をすることに勇気を必要とする場合がある。核心を突いた表現であるが故に、為政者や既得権益を守りたい者にとっては規制をしたいであろう。さあ、その時に声を挙げることができるか。ボスのような政治家から恐ろしい顔で、お前はどこの社の者で、名前は何と言うと訊かれてそれに怖じずに質問を続けられるか。代表会議で、意見を言った者が屈強の男に順番に連れ去られる(その後の行方は知れない)のを見て、尚声を挙げることができるか。剃刀の刃や銃弾が送られてきたらどうするか。

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2011.11.08

自立する

Nさん

お便りを有難う御座いました。仕事をしていこうという意欲があること、何よりです。しかし拝見していて気掛かりなことがあります。そのことについて、今日は書いておきます。

まず「お話をしてさすが○○卒で頭がいい方だと思いました」とお書きになっているのを読んで、おやと思いました。申し訳ありませんが、これはNさんが学歴に縛られているということを自ら表明しているようなものです。大学にいる期間はわずか数年のことです。どのような教育を受けたかには全く関係なく優れた人が世の中にはたくさんいます。

学歴だけではなく、「○○であるから○○である」とする思考は、物の見方を枠の中に押し込め、自分がその外に出られなくなります。現実の世界では、人間社会も、自然科学でも、「○○であっても○○でない」、「○○であるのに○○である」ことの方がずっと多いのです。それぞれが個性ある独自の存在です。大学で出会った同級生をそれぞれ思い出してごらんになると、それぞれがユニークであったのではありませんか。

貴女はこれを褒め言葉としてお使いになったと思います。ひょっとすると、同世代や自分より若い人に対しては言っても良いかもしれません。励ましになるかもしれません(それでも私は使いませんが)。しかし年長者に対しては、このような発言をなさるのはお控えになった方がいいでしょう。良いことは何もありません。

学歴に対する言及は(それだけではなく家系や出自に対する言及も含めて)、相手に対してもそのように慎重に扱う事柄ですが、自分に関してはさらに慎む必要があります。事実は事実ですが、決して自慢することではありません。それは自ずと知れることです。ある教育を受けられたのはご自分の力ではなく、ご両親のお陰であり、大きく見ればたまたまそのような環境に生まれ落ちたに過ぎません。

まあ確かに日本やアジア諸国では学歴をそれだけで崇拝する傾向があり、Nさんが名刺に出身大学を書いておくのも、日本では効果があるかもしれません。しかしこれは所詮営業のためです。Nさんがどのような人であるかは、貴女に会ってくれる人が自ずと感じ取ってくれるものです。それだけの人間的な魅力や実力を磨くことの方が大切です。

次にマーケティング。「私は私でお客さん集めはしますが」とお書きになっているのでまだ救いがあります。

しかし「得意分野だと思うので、お力をかして頂けたら有難いですが、例えばビジネスマンで英語が必要な方を一人紹介していただくことはできないでしょうか。中小企業で勤務の方で。謝礼は出させて頂きますがいくらぐらいでしたら可能でしょうか。」の所は、思い違いをなさっています。

中小企業で英語を必要とするビジネスマンなど、今時いくらでも探せます。人に頼むような事項ではありません。お父様から○○にいる方々を紹介してもらって今お仕事をなさっている、そのパターンで今後もやっていこうとお考えのようですが、それが間違っているのです。30歳になったらすべて自分で開拓しなければいけません。お目にかかったときに、自分の仕事に友人知人を関係させてはいけない、ということを申し上げたはずです。誰かに紹介してもらって仕事をするのではなく、貴女自身が見知らぬ人や会社の戸口に立ってノックする必要があります。履歴書を毎日10通欠かさず1ヶ月送ってごらんなさい。甘えてはいけませんよ。

前回、自分で「考える」ことが大切であると申し上げました。繰り返しになりますが、どこを対象にするのか、その情報をどう集めるのか、具体的にどのようなアプローチをするのか、そのためにはどのような資料の準備をすべきなのか、自分で全部できないときにどのような人と協力したら良いのかなど、考えることはたくさんあります。そのような課題を一つずつ「自分」でクリアしなければいけません。

この人は駄目であると思えば無視する、或いは忙しいので放っておくというのが世間です。前便で「努力は必ず報われ、その経験によりNさんはお勤めの人よりも強く深い人になれるでしょう」と書きました。何故そう書いたのか。それは、申し訳ないことですが貴女がまだそうでないから、しかしそのような人になれる可能性があると期待するからです。そしてそれであるから今もこうしてお返事を書いているのです。お会いしたときお話したこと、前回と今回こちらが書いたことを、よく反芻してください。

「困ったときはお話の相手になりましょう」と申し上げたのは、具体的なクライアントの紹介(これは全くの枝葉です)ではなく、ものの考え方でお力になりますという趣旨なのです。いずれ仕事でも生きていく上でも大きな選択をするときが必ず来ます。その時にこちらの経験なり考えが役立つことを願っているのです。

一つ宿題を差し上げます。もしそのお気持ちがあればですが、3ヵ月後に近況をお知らせください。その時に、それまでにご自身でどのような努力をし、どのような成果があり、どのようなことに悩んでいるかを伺いたく思います。

どうぞ日々を真剣に充実させて生きてくださいますよう。

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2011.10.23

結論から言うべきか

シリアルのおまけに、スペインのサッカー選手のカードが入っていました。そのカードには説明がついているのですが、日本では知られていない選手なので、外国語から日本語に誰かが訳したのでしょう。変な日本語ではないかと、つい翻訳をする者の目で点検してしまいました。

さてこの状況を次のように説明することもできるでしょう。

おまけのサッカーカードの日本語を同業者の目で眺めてしまいました。その選手については日本では知られていないのだから、きっと誰かが翻訳したのだと思うのです。

要は説明の順番です。一番言いたかったのは、休日の朝のんびりしているときにも、つい仕事の意識が出てしまった、そんな自分に苦笑したということです。これを最初に言ってしまうか、状況を説明してから最後の結論で、それを出すのか。

このような私たちの無意識に持っている順番の感覚が、翻訳と密接に関係しているような気がします。英文和訳で原文の意識の流れに沿って頭から訳していくことがかなりあります。しかし昔は返り点ではありませんが、お尻からひっくり返った訳をすることをよくしていました。何故そうしていたのでしょうか。訳者も読者もそれがわかりやすかったからです。

前提条件や背景の説明をしてから結論を言う、そのような順番が私たちの思考法に深く根付いているとすれば、何でも「頭から訳す」のは少し注意すべきで、ひっくり返すやり方にも理があるのではないかとも思えるのです。つまり思考の順番が原語の文化と訳語の文化で同じなら頭から訳して構わないのですが、思考の順番が違っているなら矢張り順番を入れ替えて訳す必要があるのではないか、ということなのです。

これは和文英訳でも言えます。Even thoughとか、Becauseで始める英語を書いておいて、あれこれは英語を母国語にする人にはわかりにくいかなと、最後に持っていくことがあります。つい日本人の意識で、前提条件や留保条件や理由付けを先にして、その後で結論を述べてしまうのです。そこで思考の順番を入れ替えることになります。

皆さんにお尋ねしたいのは、日本語と外国語とで思考の順番に差があるか、もしあるときには、翻訳でどのような工夫が必要なのか、ということです。私自身は、思考の順番には差がある、従って「頭から訳す」方式を機械的に適用してはいけない、と考えています。ご意見を伺えれば幸いです。

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2011.10.21

共同体

ボンヌは90歳になるが、ずっと生まれ育った家に暮らしている。お母さんは近所のシャトーという名のある農家から嫁してきたという。母親の血を受け継いだものなのかはわからないが、慈愛の中に、ときとしてかつての毅然とした聡明な女性の姿が浮かび上がってくる。ボンヌは婿に入った最愛のアレクサンドルを3年前に亡くしてからも、そこに一人でいる。

昔からの家の一部は姪の娘の一家が使っているが、大分前にボンヌの農地についての話が、その旦那との間でうまくいかなかったとかで彼らとは没交渉である。どの家にも必ず何かがあるが、それが当たり前。唯一その姪の娘の、その娘のフレデリークが何かにつけ顔を出している。ボンヌの所には、小さなフローラという2歳になる白い犬、それに2匹の猫がいる。

そのボンヌの写真をフレデリークが送ってきた。犬の写真が添付されている。おや、フローラではない。黒い幼犬である。メールを読んでみると、フローラは気の毒なことに死んだという。囲いのところに首輪が引っ掛かかったのであるという。ボンヌが気付き、フレデリークの母にも助けを求めたが手遅れであった。寂しくなったボンヌのために、フレデリークが新しい犬を探してきた。そのような顛末が書いてある。

ボンヌに電話をして慰める。彼女は大丈夫と返事をする。人は歳を重ねるに従い悲しみを経験することが多くなる。それを内に秘めて日々を生きていくしかない。

ボンヌが没交渉であったフレデリークの母に助けを求めたという便りの中の記述に、ふと考えさせられた。人は一人だけでは生きられない。人は人として共同体の中で生きていかざるを得ない。そのようなことを気付かせてくれる話であった。

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