言うなかれ君よ別れを
散歩をしていて「言うなかれ君よ別れを」と口を衝いて出てきた。全文は以下の通り。
言うなかれ、君よ、別れを
世の常を、また生き死にを
海ばらのはるけき果てに
今や、はた何をか言わん
熱き血を捧ぐるものの
大いなる胸を叩けよ
満月を盃にくだきて
暫し、ただ酔いて勢へよ きほへ
わが征くはバタビヤの街
君はよくバンドンを突け
この夕べ相離るとも さかる
かがやかし南十字を
いつの夜か、また共に見ん
言うなかれ、君よ、わかれを
見よ、空と水うつところ
黙々と雲は行き雲はゆけるを
この詩を読むと胸に形容し難い想いがこみ上げて平静にしていられない。声に出せば尚のことである。詩の生まれた時代に生きた人間ではないが、深い想いは時を超えて伝わる。
*
これは大木惇夫(1895~1977)の詩で、昭和17年(1942)11月刊の『海原にありて歌える』に所収の「戦友別盃の歌」である。今はインターネットから簡単に多くの情報が得られる。以下はウィキペディア、青山浩一郎氏、岡野幸郎氏のホームページから得た事実に多少の感懐を加えたものである。事実についてはその行文も含め特に岡野さんの書かれたものを殆どそのままお借りしている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%83%87%E5%A4%AB
http://faculty.tama.ac.jp/aoyama/no6/
http://www7a.biglobe.ne.jp/~yokano74/atogaki.html
昭和17年2月18日、今村均陸軍中将の率いる蘭印攻略部隊、第16軍は53隻の輸送船に分乗し、仏印のカムラン湾を出発してジャワ島に向かった。海軍の南遣艦隊の軽巡洋艦、駆逐艦がこれを護衛した。上陸予定海域には第7戦隊の重巡洋艦2隻が遊弋して敵襲に備えた。
詩人の大木惇夫は宣伝班員として司令部とともに佐倉丸に乗船してこの作戦に参加していた。太平洋戦争が始まるや陸軍は文士や詩人などの文化人に白紙の令状を発行して召集し、占領地の文化・宣伝・宣撫の仕事を担当させた。佐倉丸には大木のほか浅野晃、北原武夫、大宅壮一、群司次郎正などの文士が同じ宣伝班員として乗っていた。大木がこの船上で詠んだのがこの詩である。
2月28日深夜、上陸地点のバンタム湾に近づきつつあった船団を邀撃すべく米豪連合艦隊が東方から現れる。日本の護衛艦隊は直ちに船団を安全海域に避難させた上、砲魚雷戦をはじめる。交戦1時間の後3月1日未明、米重巡1隻、豪軽巡1隻を撃沈する。バタビア沖海戦である。
海戦は日本の勝利であったが、日本の艦隊から発射された魚雷のうち敵艦に命中しなかったものが船団泊地に到達した。被雷した佐倉丸は沈没、3隻が大破する被害が出る。大木ほかの宣伝班員も海面に投げ出され漂流数刻の後救助された。この事故は当時は敵魚雷艇によるものとされていた(大木らが味方魚雷による同士討ちであったことを知るのは戦後である)。この沈没漂流の大木に与えたショックは大きかった。この詩の解説に「九死に一生を得た」と書く。
第16軍は敵の陸上からの防禦砲火に妨げられることもなくジャワ島に無血上陸する。司令部をバタビア(現ジャカルタ)に置き、本隊は休む間もなく中部ジャワの軍事拠点、バンドン攻略のため発って行った。上の詩で「わが征くはバタビアの街、君はよくバンドンを突け」というのはこの間の状況を謳ったものである。
この詩は他の10数編の戦場詠とともに昭和18年4月、内地で『海原にありて歌へる』として公刊され各種の賞を獲得し、前線の将兵に愛誦された。同じく宣伝班員として佐倉丸に乗っていた文士の浅野晃は、同書の跋文に次のように書く。
・・・「戦友別盃の歌」がはじめて「うなばら」(大木らが属する部隊の部隊報で、当時は赤道報といった)に出たときの感激は大きかった。将校も兵士もその感動を隠さなかった。歌のところだけが切り取られ、手帳に秘めて愛誦された。あるひは手紙の中に挿んで故国の親や妻のもとへ送られた。それはこの詩の中に自分達の偽らぬ深い感懐を見出し得たからに違ひない。・・・
当時、戦局は重大な局面を迎えつつあった。昭和18年2月には日本はガダルカナル島から撤退した。4月には山本聯合艦隊司令長官が戦死。5月には北太平洋でアッツ島の陸軍が玉砕。国民も漸く戦争の前途が容易でないことに気づきはじめる。文科学生の徴兵猶予の特典も廃止され、多くの大学生が繰り上げ卒業したり、学業半ばにして銃を執って戦場に赴かねばならなくなった。10月には明治神宮外苑において出陣学徒の壮行会が行なわれる。
この詩はこれら学生の間でも広く愛誦されるようになる。ペンを捨てて銃を執り、国難に赴かねばならなくなった学生の心情に、この詩が強く訴えかけたのであった。
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戦争中のこの詩の評価が余りに高かったため、戦後は急激にその反動が現れた。大木は戦争協力詩人の代表としてこの詩とともに、詩壇、文壇、ジャーナリズムから抹殺された。わが国の詩人の多くは、戦争中は戦争讃歌を書いた。戦後は口をぬぐって平和と反戦の使徒のごとく振る舞い、出版界やジャーナリズムの免罪符を得た。
ひとり大木だけは許されず、高校の校歌などを作詞して糊口をしのいだ。彼は不遇のうちに昭和52年(1977)亡くなった。
平成8年(1996)龍渓書舎が『南方徴用作家叢書』を企画して、皮切りに大木惇夫集全3冊を出した。ついで平成11年(1999)金園社が『大木惇夫詩全集』全3冊を復刻発売する。
中村稔は『私の昭和史』の中で、戦争中の詩作品の中でもっとも印象深いものとしてこの詩の全文を紹介している。戦後1、2年して、彼が敬愛する年長の友人が、この詩の全編を暗誦するのを聞いたとも、そこに書きとめている。
俳優の森繁久彌もこの詩を全文暗誦できるほどに愛し幾度か自身のアルバムに吹き込み、その影響から演出家の久世光彦も気に入り、この詩を題名にしたドラマ(「言うなかれ、君よ、別れを」平成8年(1996)8月、TBS)を放映して好評を博した。
平成11年(1999)6月には「山本夏彦、久世光彦の伝えたい昭和ここにあり」というNHK教育テレビの番組があり、ここで森繁久弥がこの詩を朗誦した。声涙ともに下る名調子で見る人を感激させたという。
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改めて詩を読む。
言うなかれ、君よ、別れを
世の常を、また生き死にを
海ばらのはるけき果てに
今や、はた何をか言わん
熱き血を捧ぐるものの
大いなる胸を叩けよ
満月を盃にくだきて
暫し、ただ酔いて勢へよ きほへ
わが征くはバタビヤの街
君はよくバンドンを突け
この夕べ相離るとも さかる
かがやかし南十字を
いつの夜か、また共に見ん
言うなかれ、君よ、わかれを
見よ、空と水うつところ
黙々と雲は行き雲はゆけるを
この詩が時局に迎合したものであるか。そうとは思わない。人はそれぞれの時代に制約され、歌にもその時代にのみ人気を博すものもある。しかしこの詩は時を超え普遍的に訴えるものを秘めている。特に後半には、様々な想いを抱く人の心を一様に熱くするものがある。
この夕べ相離るとも
かがやかし南十字を
いつの夜か、また共に見ん
言うなかれ、君よ、わかれを
見よ、空と水うつところ
黙々と雲は行き雲はゆけるを
最後の「空と水とうつところ」の表現には頼山陽の水天髣髴青一髪と通うものがある。そして「黙々と雲は行き雲はゆけるを」には、贅言を費やさずして耐えていく雄々しさを感ずる。


Comments
粗忽者で記事の末尾にこういう欄があることを知りませんでした。私の拙いホームページから引用していただいて光栄です。ここにも同好同憂の士が居られるかと心強い限りです。大木惇夫の事跡を調査する過程で、多くの詩論、評論などを見ましたが、奇矯な言説に満ちていてとてもついていくことができませんでした。こういう人たちから見ると、常識人の心の深奥に迫るような大木の詩を評価できないのは当然と納得した次第でした。多くは左翼の立場からのもので、歯の浮くような平和讃歌を讃えるものでした。凡そ芸術作品というものは、好戦であれ反戦であれ、良いものはよく、悪いものは悪いのです。私は、文学は政治の砲兵であるという毛沢東語録には組しません。
岡野様
(別にコメントができないので、直接ここに書きます)
コメントを有難う御座いました。岡野様の文章をお借りしたときに直接メールを差し上げようとしたのですがメールのアドレスがわからず、江鷹会の談話室にコメントの形で引用についてお断りを入れておいたのですが、こうして直接お話ができるのは何よりのことです。
大木惇夫のこの詩は、大きな流れの中にある私たちのさだめを高く歌ったもので、雄勁な調べに読むたびに胸が熱くなるのをとどめることができません。いつの時代にも人は運命を受け入れて生きていくしかないのですが、そのこと控えめでありながら丈高い調べにしたことが、この詩が普遍的な共感を得る所以なのでしょうか。
江鷹会の方にも書きましたが、岡野様のご経歴を興味深く拝見しました。そのような記録を公開してくださったことにも御礼申し上げます。 柳絮
Posted by: 岡野幸郎 | 2009.01.30 at 10:36 PM
岡野幸郎83歳、8月15日に逝去されました。
生前こちらのサイトのことを何度もお話されていたことを思い出し書かせていただきます。
Posted by: 岡野幸郎(代) | 2009.08.18 at 12:16 PM
ご連絡を有難う御座いました。
岡野様がお目を留めて下さっていたこと、それをお知らせ下さったことに感謝します。岡野様の御冥福をお祈りします。
Posted by: 柳絮 | 2009.08.18 at 01:27 PM