距離を置いて
以下は茫々八十年回顧と題して父が出身地の広報誌に書いたものである。
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1 戦争中(昭和17年~昭和20年)
○わが運ぶ土の一塊(ひとくれ)々々が遥拝所になるが嬉しき
全国から選抜され、将来、軍の楨幹となるべき将校生徒の精神的よりどころとして、遥拝所の構築作業に精を出した。伊勢神宮、宮城、故郷を遥拝する場所。学校は市谷から朝霞に移駐のため。
○凍みどけの糞を喰いいる豚を見て平然と笑う你のしぶとさ
昭和18年12月から19年4月迄、第88部隊に勤務。北満の地で大分寒い。你(満人の別称)は家の周辺で用便、凍りついた大便の山が春先になると少しずつ解けてくる。それを黒い豚ががつがつ喰っている。你が平然としていたのが印象的。
2 故郷信州真田町の頃(昭和20年~昭和29年)
○情熱の燃ゆるがまゝに選びたる益荒男の道に悔いは残らず
昭和21年1月4日付連合軍最高司令官覚書により公職追放、G項該当(改正され昭和22年勅令第1号)
国の為俺も男だ、戦うのだ、只それだけの思いで軍人の道を志し終戦となりはしたが、全然後悔はしない。しかしそうは思っているものの、僅か21歳の若さはいかんともやるせない毎日の連続、追放解除になる迄の約6年間は悶々の毎日でありました。
○今日も山にいゆきて木を切れりかくの如くに老ゆる日思う
○ためらひて終のなりわいと決めにけりゆだる暑さに田の草急ぐ
○凍てつきし水車もゆるく回り初め山負う村の昼たけにけり
(於戸沢)
あの頃の田舎には、至る所に水車小屋があり、米を搗いたり、小麦を製粉したりしていた。静かな夜、水車小屋独特のコットンコットンという規則正しく響いて来た音が今も脳裏に刻み込まれている。
○紅葉せる山の遥かに続く涯紫紺の空に富士の光見ゆ
(萩、富士見公園)
3 終の住処(昭和30年~)御殿場
○ふるさとの山道狭くなりにけり時の流れに人は移りて
昭和40年ごろ帰省し、久しぶりで昔よく出掛けた峰山付近の山を歩いた。昔のように山仕事も無くなり、人通りも少なくなったのだろうか。昔あった山道も僅かにその面影をとどめているに等しい。淋しい限りだ。
○萱野の青きうねりは涯もなし空に際立つ富士の山肌
広大な富士の裾野から見る富士山。萩の公園から見た富士山の遠望。遠くから見る富士山も良し。近くから見る富士山も又美しい。
○新薯をゆでし香りに父母と暮らせしときを恋ひて年古る
両親健在の頃、新しい馬鈴薯を家中揃って、天地の恵みに感謝して食べた。あの頃が無性になつかしい。
○幾世紀春の訪れたしかなり今年も土手に土筆生え来ぬ
○ひこを得て早く歩めと祈りつゝ同じ心の憶良を思う
(ひこ孫誕生)
○若き日に呼子の町に散兵壕防人われに還り来る夏
軍隊最後の赴任地は佐賀県呼子町。小隊長として部下を指揮し、米軍の上陸に備え、壕を掘った。あの夏の暑い日が毎年8月になると思い出される。
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長さに制約があるなかで3部に分かち簡潔に書いたものであるが、訴えるものがある。それを読んだ人からも色々な反応があったとのこと。
ここにある短歌には何度か耳にしたものがある。作歌はそれほどではないにしても、父は歌に惹かれていた。万葉の秀歌や斉藤茂吉の赤光、島崎藤村の初恋を朗誦することがあった。それが葡萄の美酒夜光の杯などと漢詩になることもあった。それは同世代の多くの人に共通する教養であったかもしれない。
自然の美しさに感じ音に反応し、その感覚を文字にするところなど、荒々しい物言いの裏側に父は文学への憧れを蔵していた。終戦後京都大学を受験したという。それで学部はと問うと、照れたように文学部と答えたのを覚えている。歌会始めに歌を応募していたこともある。今年は惜しいところで選に漏れた、11番目であった、などと冗談を言っていた。気質や感性は否応無く子にも伝わる。
胸をうたれるのは、終戦になり公職追放で故郷にいる間の歌である。
○今日も山にいゆきて木を切れりかくの如くに老ゆる日思う
○ためらひて終のなりわいと決めにけりゆだる暑さに田の草急ぐ
これから人生が開けてくるわずか21歳という年齢に山の中の村に戻り、自分はここで一生を終えると考えるとどのような気持ちになるか。村役場の仕事をしたり青年団の活動に従事したというが、追放解除になるまでの約6年間は長かったはずである。
山で祖父と父とが木を伐採したのは、早稲田に行った弟の学費を捻出するためであった。弟が帰ってくると、ヨシ(義祝)が来るのは税務署より怖いと父子で言い合っていたという。兄は士官学校に入り軍人として前途に期するものがあったものの敗戦でそれが閉ざされる。他方6つ下の弟は大学に進む。人は時代に制約される。義祝叔父は梗塞で倒れて長くなる。
塹壕掘りに数十人を使うのが二十歳そこそこの若者であることにもある種の驚きがある。召集された人々の中にはある程度の年配者がいたかもしれないが、基本的には軍隊にいたのは若者であった。その若者が互いに血を流し合う。何たる生命の浪費か。
そのような感想に、母はお前も親のことを想う年代になったと言った。それもあるが、同時に親とはいえ20代前半の若者が置かれた状況をある距離を置いて眺められるようになったともいうことでもあるか。


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