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April 2009

2009.04.22

同じ時に息をする

まだ残る薄い朝もやの中を歩く。柔らかな草の上にうっすらと露が降りて、みずみずしい緑が白くパステルのような色合いになっている。

散歩をしていると色々なことが頭に浮かぶ。ふと思い出したのが、ジェフリー・アーチャーの『ケインとアベル』という20年余も前に読んだ小説の最後の部分。

ポーランドに私生児として生まれアメリカに移民する男と、同じ日にボストンの裕福な銀行家の家庭に生まれ自身も銀行の頭取となる男との、立身と事業を巡る生涯の対立を描いたものである。現代版のモンタギュー家とキャピュレット家の趣もあり、両家の子供は結婚することになる。

正確な記述は覚えていないが、小説の最後のところで主人公のどちらかであったかが子供と孫を訪ねる。そのあと主人公が子供たちの家を辞したところで、道の反対側に我が孫のもう一人の祖父である宿命のライバルの姿を見つける。両方の男は無言で帽子に手をやり、すれ違う。この場面がとても印象的である。

作者が二人に挨拶をさせたのは何故なのか。ジェフリー・アーチャーがこの小説を書いたのは40歳前のこと。年配者を観察し、そのような場面設定が小説の結びにふさわしいとしただけなのかもしれない。しかしこの場面から自分なりに考えを広げることができる。

二人が挨拶したということは、ライバルと口を利く気にはならないが、黙殺せず相手の存在だけは認めたということになるが、本当にそれだけか。

もう少し考えると、そこにある種の連帯感を認めることもできるのではないかという気がしてくる。戦時に敵味方に分かれて戦った兵士が、その後何十年もして互いに会うのと似ている。ではどうしてそのような気持ちが生ずるのか。

人は他人に対して好き嫌いを言うが、大きくは似たようなもの。たまたま出身や言葉や立場が違うといっても同じ人間である。そして特に同じ時代に同じ世代として生きた者同士の間には、その人たちでしか共有できない何かがある。さらにある関係が生じたとすれば、それが仮に敵味方となるようなものであるとしても、やはり特別なことである。それが世代の連帯の感覚である。

人は死者とは実際の会話をすることは不可能であるし、まだ生まれぬ未来の人と話すこともできない。年齢が上がり、自分の周りに同世代が次第にいなくなるときに、自分が他者と取り結んできた関係を一種奇跡のものとして切実に感じるのではないのか。

同じ時代に息をすることは何と不思議なことか。

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2009.04.17

イースター明けの週も終わろうとしている。陽気が良くなって、外を歩けばじきに汗ばむ。郭公の声が森から聞こえ、ツバメの第一陣も到着したようである。近所の農家のトラクターが登ってくる。やあと手を挙げて挨拶。運転席に小さな孫の男の子が同乗してこちらを見ている。

野には野草の花が咲き乱れている。白い楚々とした花、鮮やかな黄色の花、淡彩の黄色の桜草、菫、赤味を帯びた紫の野生の蘭、色合いも彩度も様々。新鮮な緑の中にそれらの花が咲くさまを見ていると、ボッティチェリの春の絵を思い出す。ビーナスの足元に描かれている草花はいずれも実際の花で、その数は極めて多いと昔何かで読んだことがある。そこに描かれているものこそ、今自分が眼前にしている野の花々である。

町の第16回サロン展というのがあった。地元の絵描きや彫刻家が各自の作品を展示するのである。そこで音楽もしようとクローディーが言い出し、コンソート曲、トリオソナタなどを演奏した。

その練習のときのこと、あとから来たフランソワーズが我々の練習の様子をビデオに撮り始めた。フランソワーズはエロールと一緒に機会があるごとにビデオを撮っている。いつもの習慣ということかもしれないが、フランソワーズが撮影するのを見ていてある感慨を覚えた。彼女は転移したがんのため化学療法を受けている。来年会えるか、再び一緒に演奏できるか。あとにこの映像が影として残るだけではないのか。

しかしこうも考える。100年後に今この世で息をしている者の殆どすべては居ない。生身の人間だけではない。我々に関する文字も写真も映像もいずれなくなる。70万巻といわれるアレクサンドリアの図書館と同じ。フランソワーズのビデオに限る事ではない。今ここに書いていることも消えることになる。記録したければ記録し、したくなければしないまでのこと。あるがままに息をしよう。

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