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June 2009

2009.06.22

生命

道端に野鳥の雛がいた。濃い灰色の体色、黄色味を帯びた羽がまだらについて、体も顔もしもぶくれで、こちらを見てひし形に黄色い口を開けた。巣から落ちたようである。道の横には椎の木があり亭々とそびえている。自力で戻ることは無理、親も何ともしようがないであろう。気の毒であるが手を出すことはできない。ごめんよ。

ノルマンディー上陸から65年、現地式典にはフランスと英米加の元首や作戦に参加した元兵士や関係者が参加した。近隣の宿泊施設はどこもそのような人たちで溢れたらしい。落下傘で兵士が多数降下したサン・メリー・エグリーズからほど遠くない、ウェインとジョスリンのところにもその余波があった。

しかし彼らのところに来た宿泊者は直接の関係者ではなかった。まあ関係者と言えなくもないかもしれないが。9人の若い男たちが、第2次大戦中の米軍のジープに乗りカーキ色の軍服で現われた。戦跡を巡るフランス人の軍事オタクである。ジョスリンはまともに話をする気になれなかった。

戦いが始まったとき、彼女の両親の家の前では、生垣のところでドイツ兵が撃たれて死んでいる。そこには毎年ドイツから戦友が訪れ、ある年に記念の石碑ができた。その後も戦友は訪れ続けた。数年前その戦友が亡くなったとき、自分の遺骨の灰の一部を友の最期の場所に撒いて欲しいと言ったという。

80歳を超えるキースが昨日言っていた。この辺りは連合軍の侵攻に備えてドイツ軍により意図的に湿地にされていて、落下傘で降下した兵士の中には溺死したものが多数いると。その口吻は静かながらも国を超えて戦いに対する強い憤りを秘めている。シーリアが横で、本当にひどいこと、と嘆く。人は長く生き経験を重ねるほどにそのような気持ちが強くなる。

他人に迷惑をかけなければいかなる行動も自由かもしれないが、9人の男たちは何を考えているのか。戦争は戦争ごっこではない。ここでもわずかの日数のうちに双方何万もの生命が失われている。

落ちた雛を見た翌日、またそこを歩いた。道端の草地からアスファルトにわずかに入ったところに、車に踏まれてぺしゃんこになり、かろうじて足だけが判別できる雛のなきがらがあった。せめて別の場所に移してやるべきであったか。何日この世で息をしたのか。ごめんなさい。

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2009.06.07

個性

毎日朝と夕に外を歩く。青空の下の強い日差しを受け、野の緑は力強く繁茂し、樹々の下は色濃い影をなしている。日数は限られてきたがもう少しの間これを楽しんでおく。

共に歩く犬たちは、それぞれ違う行動をする。プルートはさっさと先に行き、ミドリは周りの匂いを嗅ぎながら道草をし、間に立つこちらが往生する。ブリタニースパニエルとラブラドールという犬種の違いか、オスとメスの違いか、そして個体の違いか。それが個性か。

個性の違いは何に由来するのか。そしてそもそも個性をどう考えたらよいのか。

それで思い出した。ミツメムレツクリというテントウムシを大きくしたようなロボットを。随分昔に東工大のロボット工学の森正弘氏がテレビで紹介していたのを見たことがある。

このロボットは3つの目で他の同型ロボットとの位置を測り、お互いに衝突を避けて動き回るが、何台も同時に動かすと列を成すようになる。

ところが興味深いことに、いつも最前部になるロボット、最後尾になるロボットが決まっていると森先生は話していた。同型ながら部品や組み立て時の僅かな差が関係しているという。

これを知ったとき実に面白いと思った。同じように見えても、作りのわずかの差が行動の差となって出てくる。十把一からげにはできない。

ミツメムレツクリの話は、同じように作られたものでも個性が出るが、その個性がごくわずかの違いに由来する可能性を示している。それは人工物に限らず、犬や人間の行動が異なる原因でもあるかもしれない。

では我々は個性をどう考えるか。それだけで明らかにならないときには、対比して考えてみる。個性を考えるときには集団と対比して見る。

個を集団と対比すると、どちらを重視するかという選択が出てくる。個を重んずるなら、各自の持つものを尊重し、その才能を伸ばそうという考えに進んでいく。集団を優先すれば、共通性なりある種の画一性が必要になる。

人により、社会により、時代により見方は違ってくる。状況により強調するものが変わる。他者と異なるという客観的な事実も、あるときには個性的と積極的に評価するし、別のときには変わり者と否定的に見ることもある。

若いときに職場で同じ部の別の課長から、お前は変わっているという噂があるが、この職業で変わっているとの風評が立つのは身のためにならないと言われたことがある。これは画一性優先の例である。

いずれが正しいとも断定はできない。どちらを優先するかは最終的にはその人の選択である。ただ少なくとも、両方の視点を持っていることが幅につながる。

しかしその先にもう一つ何かがあるような気がする。仮に個性を尊重したとしても、その個性を超えた普遍性を考える段階があるのではないか。といっても、集団優先の画一主義に戻るのではない。

では個性を超えた普遍性とは何か。緑の中を歩きながら「同じで違い、違って同じ」とおまじないのように繰り返してみる。

それは結局のところ同じ人間としての感覚ではなかろうか。オバマ氏のカイロでの演説は多くの人々の心を動かしたようであるが、そこでも同じ人間として感覚に訴えていた。

この感覚をさらに拡大すれば、この地上に生を享け息をしている生命すべてに対する感覚になるのではないか。

さて一回りし終えてまた画面に向かう。

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2009.06.01

没頭

芝に屈みこんでシロツメクサを抜いている。それ自体は雑草でないけれど、芝の中では異分子になり気の毒であるがご遠慮してもらっている。抜いてもすぐに生えてくるので勝ち目はないかもしれない。それでも面白くて格好の息抜きとなる。通りすがりの人は這いつくばり何をしているかと思うであろうが、人間のすることは大方がこれに近い。

草の中に頭を埋めていて思い出したことがある。

1981年の今頃のこと。職場の旅行で山梨にあるサントリーのワイナリーを訪ねた。ワイナリーという言葉に何かときめいたのは、知らない異国への憧れがあったからに違いない。整然と手入れのされた葡萄畑や醸造工程を見学したあと、そこで作られたワインで食事をした。新鮮な外気の中で食事をしながら味わったワインで心地よくなり、このようなところで半農半学の自然と関わる生活をするのも悪くないと思った。

朝起きると圃場を一巡する。既に仕事にかかっている人々と挨拶をしつつ作物の状況を見て、ここの土壌にはリンを追加するようにと指示をしている。空想の上では立派な農業技師である。一回りして健康な食欲で朝食を終え、その後は執筆中の論文の続きを書く。『農業科学』というジャーナルに載せる「ブドウ幼木の○○病の原因と対策」というもの。小さくバロックの音楽を流している。

午後も論文書きを続けるが、一段落したところで釣竿を用意する。夕刻を狙って渓流に岩魚釣りに行こうというのである。夜はそれを肴に軽く晩酌。夕食後は楽器の練習、皆との合奏となる日もある。まだ27歳であったとき、そのような日々を夢想した。

現実に農業技師になることはなかった。殆どの時間は画面に向かっている。それでも緑の中での散歩と草むしりでの息抜きはできる。

石壁の穴では雀が雛を孵して賑やかに鳴いている。こちらを怖がらずあたかも自分の家のようにして出入りしている。まあ彼らの方が先住者であって、雀たちはこちらを同居人と考えているのかもしれない。しばらく管理をしていてもらおう。

再び頭を草いきれの中に埋める。

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