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April 2017

2017.04.21

荒唐無稽

荒唐無稽な話をどこまで信ずるか。今はネットを使い真実に非ざる話が広がりやすくなっている。特に話が複雑になれば、理解しにくく陰謀論が入り込みやすい。それを防ぐにはどうしたらよいのか。

人が正しいかどうか判断できる物事には限界があり、その先には未知の領域が広がる。その境界がどこにあるかは人により異なるが、境界があるということは誰にも当てはまる。

妄想をたくましくする可能性を減らす一つの方策は、広く物事に目を配り事実を一つずつ確認していくことであろう。自分で了解できる範囲を広くするのである。少しずつでも確認を続けていればかなり範囲は広がる。

それと同時に理性的な判断をすること。少ない情報でも手持ちの事実と縦横に組み合わせてみれば、その筋道にうまくはまらない話は自ずと明らかになるので、それを排除する。

そして3つ目には、わからないことをわからないとしておくこと。別の言い方をすれば、わからないことを、自分の都合の良い方に解釈しないように心掛けるということ。これは一番難しいことかもしれない。苦しいときに藁にすがり、神を頼むのは人間の性かもしれない。都合の悪いことは誰かを悪人に仕立ててその者のしたことにする。それが陰謀論が生まれる土壌となる。自分に合わせて解釈せず、未知は未知として明らかにしておく。

理性に基づく判断とはこの3つの組み合わせかもしれない。自ら合理的に考えることで陰謀論が入り込む余地は少なくなる。

根拠のない話が様々に流布する昨今で、デビッド・ランシマンの話を読んだり聞いたりしての感想である。

あの大臣も、日頃学芸員の人たちが何をしているか、大英博物館でどのようなことが行われたのか、それを受け売りではなく自分で確かめていれば、おかしな発言をせずに済んだであろう。

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2017.04.11

バーンスタインのレオノーレ

仲の良い8人が集まったとき、オランダ独立の歴史からエグモントの話となり、さらに話題が流れて彼にまつわるベートーヴェンの序曲の話になった。エグモントばかりではなく、コリオラン、レオノーレの序曲も高校生の頃胸を熱くして聞いた覚えがある。そこで久しぶりに聞いてみようとネットを探してみた。

今はレコードやCDを探さずとも色々な演奏がいとも簡単に出てくる。古いものもあれば最近の演奏もあり、それが映像になって見られる。その中にレナード・バーンスタインの指揮によるレオノーレ序曲第3番があった。1976年10月にバイエルン放送交響楽団を指揮したもの。1918年生まれのバーンスタインはこのとき58歳ということになる(演奏はこちら)。

拍手に迎えられて登場したバーンスタインは、髭を蓄えているため記憶に定着している彼と印象が違うが、そのお髭やもみ上げの故か表情が穏やかに感ぜられる。彼が立つ指揮台の前に譜面はない。暗譜で指揮をするのである。

音楽は最初の全奏の一撃のあと静かに始まり、そこにクラリネットとファゴットが旋律を奏で、次いでフルートが登場し音楽が動き始める。

音楽は少しずつ緊張の度合いを高めていき、その高みに達したところで彼は斧を振り下ろすように指揮棒を振う。一撃、また一撃。そして決然と弦楽に向かい、あるいは一群の木管や低音弦を動員する。

やがて身の内から湧き上がる喜びの旋律が始まる。彼の表情や身体の動きはまるで「いいぞいいぞ」と言っているよう。軽く手を挙げ後方の楽器群に目をやるとそこからたちまちに音が出る。クレシェンドは全身で表現され、指揮棒はまるで動物に鞭をくれるように動く。バイオリンを指差すやたちまちに身を翻してチェロにバトンを向ける。

音楽はすべて彼の頭の中に入っている。ときには茶目な仕草が出てくる。小首を傾け無邪気にその音楽を楽しんでいるというか、嬉しくて仕方ないという表情で、ほらそこ、今度はこっちだと指揮棒を軽く向ける。するとそこから音楽が湧いてくる。ビブラートを引き出す。奥の金管をつかむように手を挙げる。そこから思い通りに音がほとばしる。これほど楽しそうな指揮者の映像は見たことがない。

裏手から2回トランペットが響いて曲は後半に入る。フルートが軽やかに吹き上がる旋律を奏でるとバーンスタインは逸り立つような弦楽器を猛獣使いのように御すかと思えばその力を一気に解放する。何とも優しい眼差しと合図をコロロと響かせるフルートに送る。

緊張をほぐすかのようなしばしの対話の間奏のあと、音楽はクライマックスに向かい疾走を始める。バーンスタインは足を踏み鳴らし(その音まで聞こえる)、肩をそびやかし、足を踏ん張り、弦をけしかけ金管を咆哮させ、オーケストラという巨大な生き物を意のままに動かしている。

レオノーレ序曲は勿論ベートーヴェンの作曲であるが、ここではまるでバーンスタインが自らの音楽を奏でているように聞こえ、しかも彼の指揮からその音楽が見えてくるように感ぜられる。指揮者は実際に音が出る前に楽員に次は誰がどのように演奏するかを合図しなければならない。早すぎてはいけないし、音になってからでは遅すぎる。ほんの一瞬だけ早く合図をするのであるがそれが絶妙のタイミングであるために、彼から音楽が見えてくるのであろうか。

演奏を終えた瞬間の彼の表情はまことに晴れやか。ネットで見聞きした演奏は指揮者もオーケストラも様々であった。若手の指揮者もいれば老練な指揮者もいる。オーケストラも千差万別。いい演奏は数多の条件が重なって初めて生まれるのであろうが、バーンスタインがバイエルン放送交響楽団という練達のオーケストラを得て行ったこの演奏は、特に優れたものと感じた。

何よりもバーンスタインの指揮ぶりは見ていて惚れ惚れする。ここには力のある人が本当に輝く瞬間が定着されている。彼が歿して27年となる。

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2017.04.09

想定外か

世の中では思わぬことが色々起きる。不測の事態といい想定外という。それは天変地異かもしれないし、異文化との接触が原因のこともあるし、貰い事故のように外部の誰かの行為により起こされるものかもしれない。

思わぬものは外から来るばかりではない。自分の中に潜んでいることもある。見込み違いがある。思いと身体の動きの不一致による粗相もある。子供が思春期になり成人しやがて老化する。それぞれの段階で思わぬことが起きる。我が身の内にも異文化があると言ってもいい。異文化とは想定外の別称である。

想定外の事象に接して、おやと思い、へえと感ずる。場合によっては強い感情の虜になるかもしれない。集団を巻き込む混乱や騒擾となることもある。そのときに静かに対処できればできた人(できる人に非ず)。さてそれにはどうすればいいのか。

人は学習する。初めての事象に接し、混乱を克服し理解を深め行動様式を変える。さあこれで万全。今度は大丈夫と思うかもしれない。しかし本当に万全か。絶対に大丈夫か。同じことが起きれば学習効果が生かされる。しかし同じことはまず起きない。これでは想定外の事象に対処したことにならない。対策をとった瞬間に想定外ではなくなる。そもそも人間はどこまで予想できるのか。

それならいっそ、世の中は固定していないと考えたらどうか。学んだことが一生使えるわけではない。自然科学の普遍の真理に見えるようなことすら、常識を打ち破る考えが出てくる。全部知っておこうというのは無理。変化が常であると考える。観音菩薩の自在とはいかないが、すべてを想定外と観じ、変化を常態と心するだけでも違ってくる。まあ執着は少なくなる。

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2017.04.02

長い黄昏

フラマンビルのシャトーでの展覧会。地元の作家の絵や彫刻などが並べられている。24回目となるその展示の会場は昨年からこのシャトーとなった。ここにはルイ14世がお成りになったという。

行ったのはレセプションが始まる午後7時過ぎ。飲み物やスナックを提供しているところでジェラールが忙しそうにしている。それをもらって歩いていくと、少し先のテーブルに既にいつもの皆が陣取って、こちらの席も空けてくれて待っている。周りのテーブルで談笑している人々もそれなりの年恰好。

皆と一緒に舞台のジャズを聴く。ソプラノのサキソフォン、トロンボーン、バンジョー、それにコントラバス。黒づくめに橙色のネクタイで、4人ともプロのような恰好をしているが、彼らも地元。サキソフォンを吹くのは亡くなったジャック・アドの兄さん。こちらのテーブルのセルジュとは親しいらしい。

ジャズの曲名は知らないがいずれも耳に馴染んだ旋律。時々それぞれの楽器がソロを奏でながら、コードが進行していく。人生を閲してきたような顔の人たちが集い、夕べの一刻にジャズを聴いているのを眺めていると、1930年代の古きヨーロッパの雰囲気はこうであったのかもしれないと感ずる。そう、これも一つの文化。

夏時間になって外はまだ明るい。高い天井に黄昏の光が漂っていた。

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失職か 文字と映像

美術史家や学芸員が書いた論文を訳すという仕事をしている。かなりの分量があり10日ほどかかる。取り掛かる前にまず下調べをする。この種の文書は読むだけでは内容を十分に理解できない。関連資料を読み、図版やその拡大写真を眺め、図面を理解し、地図を確認するなど、すべきことが色々ある。

調べているうちにその学芸員や関係者のインタビューが見つかった。それは動画になっている。ああこの人たちが書いているのか。話を聞いておくと、その後で文章を読んでいてもその人の口調が聞こえてくる。同じ主題についてテレビ局が採り上げた番組なども見つかった。3本見たところでおおよそのことが分かった。成程、そういうことか。これで仕事に取り掛かれる。

仕事はそれでいいが実は動画を見終えたときに愕然とした。文書を読んでいけば内容を理解するのに丸1日はかかることが、映像を眺めているとその内容がごく短時間にわかってしまうのである。失職するかと青くなった(というのは大げさであるが)。というか人類が文字から映像へと鞍替えするかもしれないと思ったのである。

人間は楽な方を選ぶ。寛ぎたいときには丹念に文字を追う読書より一目でわかる映像に走りがち。技術の進歩に伴い、文字だけではなく映像の処理も簡単になる。そのような事情で人類のものの理解の仕方や行動様式が変わってくる可能性があるのではないか。それは職業にも影響し、文字を拾う仕事はいずれなくなりはすまいか。そう思ったのである。いっそ映像の仕事に転職するか。さあ新しい事態にどう対処する。

当初、文字から映像への動きは技術革新に伴う新しい事態ではないかと思ったのであるが、あれこれ考えているうちに「百聞は一見に如かず」という言葉を思い出した。そうか、これは昔からある話ではないか。

では、なぜ百聞は一見に如かずと言われるのか。

それは文字と映像では情報量が圧倒的に違うからである。文字で一つずつ順番に繰り出される情報を受け取るのは針の穴から覗くようなもの。これに対し映像ではそれよりずっと多くのことが瞬時に見えてくる。動画になれば尚のこと。今は技術の進歩のおかげで素人でも動画を簡単に作ることができる。

人類が映像へと鞍替えするのではないかと感じ、すは失職かと動転したのは、そのような映像の力に驚いたからである。

しかし文字は本当に映像に凌駕されてしまうのか。散歩をしながらそれを考えてみた。

こういうことかもしれない。

文字は確かに情報量としては映像より少ない。しかし文字というか言葉には事物を一まとめにし抽象化する力がある。沢山のものを袋に入れてそこに荷札を付けるようなもの。荷札によって順番を確認したり前後を入れ替えたりと様々な操作が可能になる。或いは本文の見出しのようなものと言ってもいい。本文をすべて言わずとも、ひとたび中身を了解したら見出しで処理ができる。さらに言えば、言葉がなければ思想を正確に表現することも難しくなるであろう。

それに映像を作るにもやはり文字が必要。映像作りでは絵コンテが用意されるが、そこには言葉が添えられていることが多い。発想の原点が映像である人もいるであろうが、それを整序するにはやはり言葉と文字を使わざるを得ない。映像は人の視覚(音があれば聴覚にも)に訴えられるが、概念を使い演算操作をする力は文字の方が優れていると思う(逆に映像では情緒的な印象操作がしやすいかもしれない)。

先史時代にラスコーやアルタミラの洞窟壁画が描かれたことを考えると、画像の起源は文字より古いかもしれないが(これ自体面白いテーマである)、未だに文字を凌駕するに至っていない。両者が長く併存しているのは、それぞれに異なる役割を持ち、残るだけの価値があるためである。表現する内容に応じて手段は変わる。文字を使うこともあれば画像によることもある。もちろん両者の併用もあるし、その外にも表現手段はあまたある。

という訳で、人類が文字から映像へ一気に鞍替えしてしまうという事態にはなるまい。失職の危機が去って一安心。

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