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June 2017

2017.06.28

サンライズ・ミサ

週末に近くのトラップ修道院で行われた友人の合唱団の演奏会に出かけた。団体は結成して30年。前半がジャヌカンとブクステフーデ。後半はオラ・イェイロのサンライズ・ミサ。チャペルには結構な人数が入っている。コーラスに友人が2人、チェロのローランが弦に入り、観客にも友人知人が結構いる。身近な音楽会のいいところ。

後半に演奏されたサンライズ・ミサが素晴らしかった。作曲したオラ・イェイロは、1978年ノルウェー生まれで現在39歳。アメリカ・マンハッタンに在住し作曲家でピアニストという。初めてその名前を聞き、サンライズ・ミサに接するのも初めて。彼がこれを作ったのはわずか30歳のとき。

曲は4つの楽章からなり、The Spheres (Kyrie)、Sunrise (Gloria)、The City (Credo)、Identity & The Ground (Sanctus / Benedictus & Agnus Dei)という英語の副題がついていて、それは人の一生の象徴であり、心の旅でもある。ミサ曲であり歌はラテン語である。

曲は純粋であるとともに深い響きがある。アルヴォ・ペルトのようでもあるし、カール・ジェンキンスのアディエマスを感じさせるところもある。それと同時にこのような旋律や和声は日本のどこか抒情性を含むものとは何かが違い、やはり西洋のものかもしれないとも感じた(まあそれを言えば、アジアの音楽、アラブ、ラテン、アフリカのもの、それぞれに独自なのであるが)。

いずれにしてもこの曲はこちらの心をしっかり捉えた。それからというもの今週はずっとこの人の曲を聴いている。色々ある中でやはりこのサンライズ・ミサがまず第一と思う。演奏としてはラトヴィアの団体のものが最も気に入った(こちら)。いくらでも聞き続けられる不思議な力のある曲。

終わって修道院の本館でレセプション。修道士のジャン・ルック師はここに46年いて、散歩のとき当方の家の前を通ることもあるという。平服なので気が付かなかった。今度はどうぞお立ち寄りください。そう申し上げる。


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2017.06.23

自然の掟

朝の散歩。プルートがぐっと前に出る。その向こうにカラスより二回りほど小さい黒い鳥がいる。クロウタドリか。羽ばたいて逃げるかと思ったが、よたよたして捕まってしまった。仕方ない。こういうこともある。

すると樹上から鋭い鳴き声が聞こえてきた。そうか上に親鳥がいるのか。慌ててプルートを鳥から引き離す。幼鳥は繁みに消えた。

今は巣立ちの時期、樹上の巣から落ちたのであろう。かわいそうだが巣から落ちた雛鳥が生き伸びるのは難しい。他の動物に捕まることもある。犬が飛びかかるのも本能。それが自然の掟。前にもそのようなことがあった(生命)。

ふと思う。人間も動物の一種。そこにこの自然の掟はどこまで適用されるのかと。

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2017.06.22

真実

会議は平行線をたどり長引いた。話し合いの最後に一方が改めてその主張を述べた。それに対して他方が自分の側の返答を繰り返した。さてこれはどのような会議として報告されるのか。

一方は「当方の主張を述べて会議は終わった。先方が何か最後っ屁のようなことを言ったが、それは負け惜しみであった。」そう報告するかもしれない。他方は「一番最後にこちらの主張を述べて会議は終わった。当方の言い分が全体で受け入れられたと感じた。」そのように復命するかもしれない。

同じ会議でも出席者により受け止め方が異なる場合がある。論争の当事者だけではなく中立的な立場で出席していた者も様々な印象を持ち帰る可能性があるという話。

この会議の様子が文書になっていたとする。両者が対等の主体であればそれぞれに報告書を作成しているかもしれない。ただ作成された両方の文書を読んでその会議の内容を再現してみると、それぞれの文書で方向性が大きく異なることもあり得る。

文書は片方で作られるだけのことも多い。お役所と民間の交渉では、民間の側が詳細な記録を作成し今後に備えるというのが常である。強い側は記録をあまり残さない。すると実際のところがどのようなものであったのかは曖昧になりかねない。

また公式記録というものは公式であるが故に真実というわけではなく、その点についても読むときに注意を要する。関係者の利害や体面を調整したうえでの文書であることも多いのである。混乱の最中に作成されることもある。戦闘詳報を読むときも同じ。

議事録全文を手にする人は限られていて、多くの人は報道でその概要を知ることが多い。しかしそれが報道されるときには要所だけが紹介され全部ではない。そこで報道すべき事項の選択には主観が伴わざるを得ず、ときには恣意が入り込む可能性がある。冒頭の会議の事例であれば、前者の主張のところだけを抜き出し「最後に前者はこう主張した」とするのと、後者の言い分まで含めて報道するのでは、人々に与える印象は随分異なる。

報道を読む者は、一部の記述だけに飛びつかず全体を捉えて理解するよう心すべきであろう。先ずは全文を読んでみる。またそのような会議の経験があればやり取りの雰囲気を想像することもできる。しかしそれがなくとも、人間の行動様式や心理も合わせて読めば一面的にならずに済む。さらに大きな図柄を承知していれば、おかしなことに気付くこともある。

要は、戦場があり、大本営発表があり、それを伝える新聞があり、それを読む読者がいるという構図を意識し、自分の都合に合わせた解釈を排すということ。現場からの距離が離れるほど、中間の媒体の思い込みや操作を取り除き、否定できない真実を求めるという姿勢を強めていかねばならない。

さてそのようにして真実に迫る努力をしたうえで改めて問うてみる。真実は奈辺にありやと。調べてみれば最初の印象とは様相が異なってくるのは確かである。けれどもそれは本当に真実なのか。

結局のところ真実は十人十色で、それぞれが自分なりに世界を切り取ったものを以て真実としている可能性がある。世間というか世界は各自の信ずる真実で日々動いているのであろうか。


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2017.06.17

おつきあい七分

フェイスブックで申請をいただいてつながった人がいる。数回お会いしたご縁によるのであるが、その後で何かやり取りがあったわけではなく、その方自身もあまり発信はしていない。しばらく前にその人の誕生日が来たことをフェイスブックのお節介機能で知った。さあどうしよう。

多少でもやり取りをした人に対しては、お誕生日を祝う言葉を贈ることが多い。書くのに何ほどの手間もかからない。それなのにこの人にメッセージを送るのには何かためらわれる気持ちがある。それは一体何なのか。

こういうことかもしれない。

(1)おつきあいには濃淡の差がある。一色ではない。それはこのようなコミュニティーでも実際の職場や地域でも同じ。よくしゃべる人もいれば寡黙な人もいる。先方も当方も皆が違う存在である。各自の個体差があり、その組み合わせにより親疎の差が生まれてくる。

(2)おつきあいは広げようと思えばいくらでも広げられる。しかし誰にも時間や資源の制約がある。それを無視して交際を拡大するのは、大海を一つのインク瓶で青く染め上げるようなもの。つながっている全員にメッセージを送らねばと思うのもそれと同じ。

(3)おつきあいは自らの選択である。それは学校で先生がクラスの皆を同じように扱うのとは異なる。或いは行政手続で差別的な取扱をしてはならず、規則に決められている通りに進めなければならない、というのとも違う。

(4)おつきあいは何らかの共通するものを基礎として相互に刺激を与えることである。共通基盤がなく接触がなければ、交際にならない(そこを一押しすることで新たな展開が開けることもあるが、そうなるかは個別の状況による)。

心のどこかに引っかかるものがあったのは、個別の事情を無視してある原則を画一的に当てはめようとしていたのを、何者かが「ちょっと待て」と命じていたからかもしれない。

交際はひと色ではなく状況は千差万別。7割できればそれでよし。限られている時間は付き合いを広げることではなく深めることに使おう。今回の天の声はすべてを同じように律する硬直した考えへの警告であった。

結局お誕生日のメッセージは失礼することにした(自分の誕生日についても公開していない)。

振り返ってみればこれは既に母が教え給ひしことの応用問題であった(旅の荷物)。

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2017.06.16

取り換え

バスガンバの響きが落ちてきた。そろそろ低音弦の取り換えの時期かもしれない。

低音弦は巻線になっていて、裸のガットのようにささくれが起きるわけでもない。そのためつい長期間そのままにしてしまう。しかし見かけに変化はないものの、長く使っていると芯のガットと外側の銀の巻線との間にゆるみが出てくる。びびりが出るほどではないが、振動が吸収されるようになる。

AとDの弦を思い切って替える。次いでに上の2本も早めに替える。違いは明らか。音に輝きが出て楽器の鳴りが格段に良くなった。緩くなったフレットも気になるのでしっかり巻き直す。

銀の巻線でいい値段。プロなら弦の出費も馬鹿にならないと同情する。

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2017.06.13

どう読むのか

日本記者クラブでは内外の人との記者会見を音声アーカイブとして順次公表している。1986年5月26日には作家の井上ひさしさんが「新聞文章、放送ことば、日本語」という演題でお話をしている。それを聞いて考えるところがあった(お話はこちら)。

お話では様々なことに触れられているが、関心を持ったのは戦時中の新聞報道にかかわることである。まずは井上さんのお話を紹介しておく。

井上さんは、新聞は戦争中、軍部大本営の発表を鵜呑みにして嘘ばかり書いていたと批判されているが、克明に読めば決してそうではないというのである。彼は当時のことを書くため昭和11年頃から昭和25年頃までの新聞を全部集めて読んでいる(それは「きらめく星座」のためであったろう)。

・・・
確かに発行停止を避けるため、新聞社では一面には建前を書かざるを得ない。そこは信用できない。しかし投書欄などでは正しいことを伝えている。投書を選ぶ記者の感覚は確かである。

昭和20年の4月、5月頃の各新聞を見ていると、ドイツが負け日本も追い込まれ、いずれ同じような状態になるであろうが、その時にどうしたらいいかということを実にうまく書いている。

軍部と組んだ特攻隊の出撃のルポも、よく読むと特攻隊、人間爆弾という、そういう馬鹿な武器を使って、この戦争を続けていいのかということが炙り出されるように書かれている。

明日特攻隊員として飛び立つ若い飛行士たちが、その前の晩に何をしているのか。ある人は一晩中寝ないで鉛筆を50本も削ってしまう。「絶対ヘンだな」と思わせるように書いてある。

皆半分気違いになっているというのがよく分かる。明日死ぬというときに変にならない訳がない。

大きな記事ほど眉につばをつけた方がいい。三面記事のトップとか、第一面に出てくる記事は、記者の肩入れがあり、はやりの題材でもあるためか、文章が非常に浮いている、
・・・

戦争中新聞は嘘ばかり書いていた、と言っている人々は見出ししか読んでいない。記事を丹念に読むと、そこに記者として言うべきことはしっかり入っている。そう井上さんは語っている。

さらに、これは戦時中の話ではなく講演当時の新聞のことらしいが、各紙ともベタ記事に素晴らしいものが多くある、と語っているのも上の話と通うものがあろう。

さてこれをどう考えるか。井上さんの話を時代により大きく振れるメディアの擁護と捉える人がいるかもしれないが、ここで考えるのはメディアの側の話ではない。何をどのように読むのか、という受け手の在り様を問題にしたいのである。

(1)見出ししか読まなければ、同時代人はそれを信じてしまう。後に過去を振り返ろうとする人が後知恵と見出しを短絡させれば、「戦争中新聞は嘘ばかり書いていた」と思い込むことになる。今現在のこととして読む者も過去のこととして読む者も、見出しだけで判断するなら真実を捉えられないという点では共通している。

大きな見出しはときに空虚の代名詞という可能性もある。

(2)表現をする者に様々な制約が課されるのは、戦時中に限ったことではない。今でも組織に身を置いて何かを書くとすれば、その意向を体する記事にならざるを得ない。外部の影響も働くであろう。様々なしがらみがあるのは、自由とも見える文筆家であっても同じであると思う。しかし人はそれでも本音を語ろうとする。

(3)そのような書く側の制約を知ったうえで、読む者は見出しだけではなく、内容を一つずつ確認していく必要がある。一つの記事だけではなく、その日の紙面を丹念に読んでみる。ベタ記事には大見出しがない。そこでは具体的な話を通して本音が吐露されているかもしれない。広告も大切な情報である。

(4)さらに、それまでに自分が蓄積している知識や事実と照らし合わせて、想像力を働かせて読んでいけば、本当は何を言いたいのかがかなり正確に見えてくる。

考えてみれば、我々が中国共産党の人民日報を読むときには同じようなことをしている。メディアの報道への接し方次第で多くのことが読み取れる。そしてそのような接し方は自国の報道についても当てはまる。いや、これはそれに止まらず事物への接し方一般にも当てはまるであろう。

井上さんは自らの作品の準備の過程で、新聞が戦争中に軍部大本営の発表を鵜呑みにして嘘ばかり書いていたわけではないことに気付き、そのことを伝えてくれたのであるが、それだけではなく報道に接する受け手の姿勢についても大切なことを教えてくれていると思う。

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2017.06.09

平明に言う

難しい言葉を使う必要はない。普段の言葉で十分。平らな言葉によっていくらでも深くできるし、やさしい言葉を使っていくらでも高く羽ばたくことができる。難しいことを難しい言葉で言おうとすると判ってもらえないし、その前にまず自分でわからなくなる。平明に言ってみて初めてすんなりと腑に落とすことができる。

ではどのようにしたら平明なもの言いができるのか。それは言おうとすることの見極めにかかっている。しかしその見極めとはどのようなことか。恐らく次のようなことかもしれない。

先ずは切り分け。よく見てどこで一まとめにできるかを考える。じっくり見ていれば区切りがわかる。

切り分けたらあれこれ目移りさせず、一つのことに心を傾ける。沢山あるものを一度にやろうとしない。話のごたごたしている人は、一度に多くのことを語ろうとする。ちょっとちょっとH君、そこの話だけにしたらどうかな(部内の他班にいた彼がよく相談に来て、頭の中のすべてを店開きしていたことを思い出す)。

その次はあとさき左右のつながりを考える。筋道を明らかにするということ。きちんとつなぎ言葉が入れられれば一先ずは筋が通っているということになる。

そのうえで枝葉に惑わされることなく幹を捉える。何が大切なのか。この話はどこに行こうとするものなのかを考える。つまりは目先のことをきちんとやりつつも、大枠を目の端に入れておくということ。

平明とは言葉を正しく確かな形で使うこと。頭にあるものごとにぴたりと合う言葉を選ぶことである。言葉と考えは巡っているのであるが、正しい言葉を選ぶことで言いたいことや考えがさらにはっきりしてくる。

平明な言葉遣いで、どれだけ生きていることの奥深くにあるものに迫れるか、どれだけ丈を高くすることができるのか。それは言葉を巡るものごとの見極めと切り分けにかかっている。

井上ひさしさんが「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」と語られていたのを思い出した。はじめのところが上に述べたことであるが、後の方の面白く楽しくというのはその先で取り組むことで、さらに心のゆとりが要る。

(以上「平明」を除いてすべてやまと言葉で書いてみた。)


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2017.06.08

パンク

夕方隣のクリストフが戸を叩く。こちらの車の左後輪のタイヤの空気が抜けているというのである。やあ気が付かず危ないところだった、有難う。

すると彼は、スペアタイヤはどこかな、ちょっと見ようという。スペアは車体の下に吊り下げられているが、なかなか取り外せない。クリストフはそのまま車体の下に潜り込む。服や手の汚れるのも厭わず素手であれこれして漸くのことでタイヤを取り出す。

そのあとジャッキで車輪を浮かせてパンクしているタイヤをスペアと交換する。こっちがするというより殆ど彼がやってくれた。他人のことにここまで懸命にしてくれることに、今まで気付かなかった彼の一面を見た。なかなかできない。さて自分はここまでできるか。そう振り返る。

翌日ボトル2本を持ってお礼。

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2017.06.06

さあやろう

目の前にものが山積みとなっている。それは仕事かもしれない、洗濯物かもしれない、生きていくしがらみのあれこれかもしれない。返事をしなければならない便りも気がかりだ。さあどうする。

苦手意識があるとつい後回しになる。一段落してからにしよう。場合によっては楽なこと、好きなことに逃避する。気が付くと結構な時間を過ごしてしまった。しかしその間にも山は少しずつ高くなる。そのうちに山崩れが起きるかもしれない。時間が経過すれば気持ちの上でも負担が大きくなってくる。

料理に使う包丁に譬えれば、毎日使っていれば切れが悪くなる。ああ研がなければ。でも今は忙しい。もう少し先にしよう。しかしそれを使うしかないので日ごとに刃先は鈍くなる。そのうちに怪我をすることにもなる。

さあどうしたらいいのか。そう、そのときは包丁を研ぐしかない。今すぐに。歯を食いしばっても。

しかし歯を食いしばらなくともいい方法がある。とても簡単。

山になっているものの中で、手近なもの、手を付けられそうな簡単なものを採り上げる。最小単位で齧ってみる。それだけなら咀嚼できる。内容もそれほど難しくない。手紙に返事をするならとりあえず封筒の宛先だけ書いてみる。

案ずるより産むが易し。そこだけはできた。やっていれば興も生まれる。何か発見があるかもしれない。ではその隣に手をつけてみようか。そうやって気が付くと山はかなり小さくなっている。

小さなことをすぐに片付けることが習慣になると、山ができない。歯を食いしばるようなこともいつの間にかなくなる。しかもここに登場するのは自分だけ。他者は一切出てこない。自分だけで完結できる。

やらなければ終わらない。でもやればそのうち終わりがくる。さあやろう。

(もう一つ、ことを省くというのがあるが、これはまた別の機会に。)

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何を語り何に応ずるか

(1)人は自ら関心のあることを語る。その内容から語り手の世界が見えてくる。
(2)人は外界の刺激に応ずる。どのような刺激に反応するのか、どの程度に反応するかを見れば、その人の他とのかかわり方が浮かび上がる。

前者からはその人の思考が、後者からはその人柄が明らかになると言おうか。語ることからはその人の内側が、反応のし方からはその人と外側との関係が見える。それぞれについて、さらにどう区分するか。
もう少し例を集めて考えてみることにする。

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