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July 2017

2017.07.31

過去は語らず

そこには功なり名を遂げた人もかなり入居しているという。しかし入っている人々は自らの過去を一切語らない。にこやかに眼前のことについて他の人々と語るのみ。叔父から聞いた中で印象に残った話である。

人々は何故自らの過去を語らないのか。誰にも青史に自分の名をとどめたいと思う時期がある。身を立て名を挙げやよ励めという時代がある。さてそのあとはどうなるのか。それを考えるときに、この話は一つの材料となる。

各人に聞けばそれぞれの答があるかもしれない。「いや、そんな心の動きは簡単に説明できるようなものではない」とお答えになるかもしれない。それを敢えて一歩踏み込んで探ると、どのような意識が潜んでいるのか。

それは慎みであるかもしれない。他人や世間から注目を浴びようという気持ちは既に超えている。与えられた機会になすべきことをした、それで十分ということであろうか。

しかし自らの過去を語らない理由には、そのような個人に帰することができるものだけではなく、もっと集団というか生命体の摂理のようなものがあるような気もする。

個人と共同体の関係を考えているときに、人間は全体としてはアメーバのようなものではないかと考えたことがある。アメーバからは仮足が飛び出している。個人は人間集団というアメーバから伸びている仮足に例えられないか。

その仮足は一時非常に突出する。個性の発揮といってもいい。しかし突出している仮足はいずれ引き込められアメーバ本体に戻っていく。個を個として切り離すのではなく種の一部として考えるこの比喩は、人間だけではなく生きているものすべてに当てはまるような気がする。

個人の一生とはアメーバから仮足が伸び始めやがて突出し、その伸びていた仮足が縮んで再びアメーバ本体に戻るようなものかもしれない。個は一度その個性を発揮するが、いずれ個であることをやめ自らの生い育った共同体に返っていく存在のように思える。

共同体に返った人はもう自己を語る必要はない。サティシュ・クマールがその母から教えられたプラムの木の話とも通うものがあるかもしれない(ある思想家)。

朝公園で清掃の奉仕をしている年配の人々を思い出した。

通勤のため駅に急ぐ現役世代の邪魔にならないように黙々と仕事をしている。しかしその人たちにも激動の時代を生きた記憶があり、それぞれに高く飛翔するときがあったはずである。その人々が今、己を無にして静かに公園を掃き清めている。

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民主化

始めはパーセルの7声のインノミネ。久しぶりの顔合わせで、さあやろうといってすぐ通ってしまった。誰も落ちない。楽器と声部を皆で入れ替えてしばらく楽しむ。

Sさんがそのあとの歓迎会の準備のため抜けた後は、いつものように6声でジェンキンスのパバーヌやファンタジア、ローズなど。そうだピアソンも一回やろう。

最後は「思い出」と当方が名付けているルポのファンタジア第2番。曲の最後の方で上の4声が過去を振り返るような歌を始め、その同じ歌というか音型を下3声が受け、それを色々な声部で歌いながら静かに曲を終える。うまく演奏できればなかなか感動的。

途中で気が付いた。各自がチューナーを使って調弦している(チューナー内の調律法をヤングなどどれかに統一すればもっといいかも)。民主的になったもの。独裁者のいなくなったコンソートグループはプラハの春を謳歌していた。

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2017.07.09

広がる響き

アルスノヴァの演奏会。場所はバルフレールにほど近いレヴィルの教会。車を運転していると平野が広がりその先の東に海があり、イーストアングリアを思い出させる。海が遠くに見えるその教会での今シーズンの一連の演奏会の一つとしてアルスノヴァも招かれたもので、聴衆から入場料まで取って聞いていただく。

プログラムはプレトリウス、シャスティリオンを中心とし、それにジャヌカンやセルミジを加えている。シャスティリオンはノルマンディーの作曲家でプレトリウスと同時代人である。演奏は器楽と合唱にナレーションを加えたいつもの形。シャスティリオンの歌謡の歌詞を使い、いくつもの曲を物語風につないでいく。

新たにテナーとアルトの歌い手が加わり総勢10人となり、皆ルネサンス風の衣装に着替える。こちらはアニークの拵えてくれたサムライ衣装なるものを着用する(燈台下暗し)。

ここでの担当はリコーダー。曲によりソプラノからバスまで4つの笛を持ち替えるのであるが、同じ曲でも繰り返すときには楽器を持ち替えるとか、途中で演奏する声部をセカンドからトップに移すとか色々ややこしい。一つに固定すれば楽なのであるが、音色の変化を求め色々注文がくる。楽譜に指示を書き込み、声部の移動、転調など印をつけておくもののうっかりが怖い。

(ことは音楽に限らず一事が万事である。インテリア、服飾、建築なども含め、ここの人々は変化を好み、物事を単純にするのではなく複雑に装飾や変奏を加えていく。それが人々の傾向というか特性ではないのか、余計なものを削ぎ落とし純化するという方向性とは対蹠的である、そう思うようになった。それぞれにお国ぶりがある。)

シャスティリオンは自然に湧き出る歌をそのまま書きとめているかのようで、小節内の拍数が4拍のときもあれば5拍になったり3拍になるなど一定していない。和声にも特徴的なものがあり、いくつか聞いていると彼の音楽の雰囲気が見えてくる。5人の楽師がフィドル、テナーとバスのガンバ、リコーダーでそれに合わせる。

プレトリウスの曲はテレプシコーレの曲集から、なじみのブランル、ガボットやバレなどの器楽曲を選んである。それを歌と歌をつなぐ間奏曲として使っている。

バレではジェラールが先ずはフィドルで旋律を始め、転調するところでダニエレが喇叭でそれを受け継ぎ、もう一度転調するところで当方が第2声から第1声に移りアルトで音を細かくしていく。最初は真っ直ぐなルネサンスリコーダーの響きが教会の奥まで広がる。それが次第に糸がほどけていくようにして展開して行く。受け渡される細かな刻みのときにわずかにためを作ることで旋律が柔軟になる。

アンコールには歌い手が前に出て舞曲を踊る。終わって教会横の元の牧師館で主催者や聴衆、演奏者が一緒に林檎酒とビスケットで歓談。茶菓の提供と同じ。やれ、ひとまずお役目終了。

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大切なもの

昨年はるばる来てくださりまたお会いできると楽しみにしていた方の訃報に接する。まだ色々に活躍できる年齢でその先が絶たれた。あっという間に消え失せた。その表情、声、しぐさ、好きなこと、ご家族のこと、やり取りをし、共有した経験。もうこれ以上に積み重ねることはできず記憶にとどまるだけとなる。

何が大切かは言うまでもない。その他の多くのことは些事である。人はこのような報に接し改めて自らを省みて生命を考える。

あるミサ曲を聞いていてその曲の意味が突然に変わり平静に聞くことができなくなってしまった。御霊安かれ。

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2017.07.05

元気

学校は夏休み前の最後の週となっている。そんな時期にマリーエレーヌに頼まれ彼女の娘さんの通っているブリックボスクの小学校で授業をすることになった。ブリックベックでの音楽授業に続いて今年2回目の学校訪問。

今日行くのは児童数75人の小さな村の学校。そこの6歳と7歳、8歳と9歳という2つのクラスで日本の文化と言葉を紹介するというもの。持ち時間は各45分。

前日に彼女と打ち合わせて、日本の位置、簡単な挨拶、数と文字の紹介をすることにした。子供たちの興味を惹きつけるには工夫がいる。対話をしながら、子供たちに声を出させ、ついでに手も動かしてもらうようにする。

一人一人の名前を書いたカードを用意した。上部にファーストネームをアルファベットで書き、その横に片仮名も小さく書き入れておく。子供たちはそれを見ながらカードに片仮名を大きく書き写すというわけである。

子供の名前を読み上げながらカードを各自に配る。ああこの子がマテウスね、この子がフローラか。50音図を説明するとマリーエレーヌがそのコピーを配ってくれる。

前に立ちマリーエレーヌと組んで説明をしたり、子供たちが文字を書くのを手伝ったりしていると、それぞれの違いがよくわかる。利発な子供はすぐ指を立て、答えたくてしかたないというように身をよじっているが、できるだけ多くの子供に当てて話をさせる。

短い文章の朗読や日本の歌の紹介もあり、持ち時間はあっという間に過ぎる。いくつか質問に答えてから、最後に「さようなら」というお別れの挨拶を教えて、はいお仕舞い。

次のクラスと交替してこれをもう1回繰り返す。子供たちと触れ合うのはなかなか楽しく、何よりも元気をもらう。

授業が終わってその小さな校舎を出ると、さらりとした空気を通して日の光があふれていた。学校の退けどきで子供たちも出てきて親に迎えられている。手を引かれながら子供たちがこちらに手を振る。そこで「はい、さようなら」と声をかければ、向こうからも覚えたばかりの「さようなら」が返ってくる。

10年前のケテフーの子供たちを思い出した(幼なじみ)。

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2017.07.03

物差の後先

過去と未来の比重は個人の中で年齢とともに変わってくる。子供には有り余るほどの未来があるが過去の蓄積は殆どない。それに対して老いた人には長い過去があるものの未来はわずかしか残されていない。0から100までの目盛のついた物差で、現在の位置を示す赤い玉が動いていくようなもの。

その赤い玉がどこにあるのかで人の発想は変わってくるし、その人への周囲の対応も変わってくる。子供には将来何になりたいかを聞き、年配者には曾ての話を語ってもらうことになる。その逆にはならない。

(年配者の話を老いの繰り言というなかれ。それは当然のこと。それに生きていることを感ずるには歩んできた道をふり返ることが大切になる。過去無くして現在の自分は存在しない。)

ただこれは生を一人に限ったときのことである。それを大きな生命体として捉えたらどうなるか。個をそれだけで完結している存在と見るのではなく、群体としての生物の一部とするのである。

(1)すると過去とは自分の過去ばかりではなく、その人の生まれる前から続いている長い時間を合算した総体ということになる。子供の物差にも実は長い過去が付いている。

子供に自分の両親や祖父母のことから始めて先祖のことに思いを致すことを教えていれば、やがて先祖の祭りとなり歴史の意識が育まれる。そのようなしきたりが連続する生命の意識を生む。

(2)未来についても同じ。老いにつれその個体にとっての未来は限られてくれるが、その子や孫のことを考えれば、新たな未来の視点が生まれる。血がつながらずとも、自らの属する共同体の未来を考えると発想が変わってくる。

生きるには前を向かねばならないが、個を超える大きな生命体に夢や思いを託すことも前を見ることである。

こう考えてくると、個人にとっての過去や未来とは、物差の赤い玉の前後の比率として見るような短いものではなくなる。もっと長い時間の中で捉える必要がある。個別の生は、遥かな過去から紡ぎ出された長い糸の一部であり、その糸はその後にも長く伸びていく。しかも糸は無数に流れ、過去にも現在にも様々に絡み合っている。

個の物差を超えると頭の中の世界が俄かに広がってくる。

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インノミネ

ニューナムから泊りがけで来てくれた二人を含めいいガンバ奏者が揃い、ジェンキンス、バード、ローズ、ロック、パーセルなどに浸った3日間。さまざまな思い出のあるギボンズの5声のインノミネの第1番。久しぶりに第1声を弾く。何という世界。ヒンギストンとクランフォードが収穫。

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