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2017.12.17

失せものの行方

ないない、ないっ。どこに行った。お前知らんか。使いやしなかったろうな。ええ俺の眼鏡だ。まあお父さん、ほらおでこの上にあるのはなあに・・・

洋の東西を問わずどこにもある話。ものがそう簡単になくなる訳はない。他人を疑う前にまず自分の身の回りをよく探すこと。他人を呪わば墓二つという。

失せものは大概あとで何処かからひょいと出てくる。引き出しの中には似たようなものがいくつも転がっている。自分で仕舞っておいて忘れているだけ。それはモズのはやにえと同じ。人間の記憶力など多寡が知れている。こんなことがよくある。

失せものは物理的な形をとるもので生ずるばかりではなく、電子的なファイルでも同じこと。それを検索する道具が出ているのは、皆が失せもの探しを常にしている証拠である。

(失せものと分類)
何故ものが失せるのか。考えていてそれは分類に関係しているのではないかと思うようになった。

(1 分類とは)
分類とは何か。広辞苑には「種類によって分けること」とある。しかしこれは分類という漢字を分解しただけで、あまり役に立つ語釈ではない。分類を自分なりに定義すれば「多数のものを共通要素でまとめ、共通要素がなければ別にすること」である。

ものが少ないときには分類は生じない。集まったものは小さな引き出しに入れておくだけ。そのうちに数が増えてきて、ものの中にある同じ要素(裏からみれば違う要素)を見付けて分類区分をするようになる。人は仕事や日常に必要なもの、好きなもののコレクションなどで、様々な分類をしている。そうせざるを得ない。

(2 分類基準の多様性)
ではどのように基準で分類するのか。子供のときの机の上を思い出す。色々な勉強道具がある。それを科目であるとか、教科書やノートの大きさ、色などで分けて、あちこち動かしたことを思い出すが、分類基準は様々にある。

時系列で並べるという方法がある。主題別にしたり、あいうえお順というのもある。道具などは大きさや形状で分ける。大きなものは外、小さなものは手元に置いておく。楽譜は楽器別、作曲者別、時代別、人数別、通奏低音の有無などで分ける。分類基準が色々あるのは、ものに様々な属性があるからである。大きさ、形状、時期、分野、作者、素材、時代など。私は一体誰なのというアイデンティティーの問題と同じ。

そのどれに着目するかは、人により異なるし同じ人でも状況により変わってくる。それが一義的な分類ができない理由である。

一つものをいくつもの基準で分けることができる場合、どちらに入れようか仕舞おうかと迷った末に、一先ずどこかに入れておくということになる。しかしどこに入れたかはすぐに失念する。あれはどっちに入れておいたっけ。あっちかこっちか。斯くして必要なものをすぐに取り出せず、迷子や失せものが発生する。つまり失せものが生ずるのは、様々なものを扱うときに分類基準が一定にならないからである。

しかし失せものは本当に消えてしまったわけではない。思いもしないところに分類されて眠っているだけである。

(3 分類基準の流動性)
分類基準は流動的でもある。新たに何かが加わった場合どこに分類しようかと考える。分類を十分に考えたものにしておけばいいではないかというかもしれないが、予想外の新しいものが出て来て、分類は次第に増えてくる。

新しいものが少なければ、「その他」とか「雑」などという区分で間に合うが、その他の中身がいつの間にか増えて新区分を作らなければならなくなる。そのような結果として分類区分は常に動くのである。

(使ったら元の所に戻す習慣を付けるのは失せものが出ないようにする一つの手段であるが、これはそのものが既に分類されており比較的よく使われて記憶に残りやすいものの場合である。お父さんの眼鏡はこの範疇になる。ただ忘れてしまえばうまくいかないが。)

分類が固定的でないということを逆に言うと、分類は集まってくるものをその人の便宜に合わせて常に組み換えているということになる(何のための分類か)。分類は自分の達成したい事を考えた上での分類なのである。分類のための分類ではない。従って分類はそれをする人により異なるものになることは十分にある。

こうやって見てくると分類が固定的でない限り、「浜の真砂は尽きるとも」ではないが、失せものは世の中からなくならないのかもしれない。

(4 失せものを減らす)
失せものはなくならないかもしれないが、失せものを減らす工夫はあるように思う。

ものが増えるから分類が生じ、その分類が完全ではないために失せものが生ずるということであったが、それならものを減らしたらどうか。沢山のものがあるから分類が発生するということなら、ものを1つにすれば分類の必要がなくなる。その結果ものが行方不明になる事態も減らせる。一つしかないなら迷うことはない。場所ふさぎにならないだけではなく、気持ちの上でさっぱりする。精神の解放である。そして残ったものを十分に理解し愛情を注ぐことができる。

(補足 専門には分類が必要)
ただこのような方向は、自分が何かに特化しようとする場合にはうまくいかないことに注意すべきである。特化、すなわち専門を持つというときには、その分野の中身を細分化し、目的や用途に応じたものを沢山用意しておく必要がある。それは必然的にものを多くする。専門家は素人から見れば同じようなものを数多く揃えているのである。

ということは、ものを減らすのは何かの専門であることを止めるという覚悟に関わってくる。それはある域に達した人のすることかもしれない。達人ならざる我々は失せもの探しに多くの時間を費やし続けざるをえないのかもしれない。

(補足 失せものを探さない選択肢)
以上は失せものを探す前提で考えたこと。しかし本当に探す必要はあるのかしら。

(i) 費やす時間を考えれば、新たに手に入れるという選択肢がある。同じものを店で買ってくるだけではない、それを自分で作ってみる。自分の書いた文書が見つからないときはもう一度書き直してみる。それにより思わぬ発見をしたり、新しい工夫を思いつくこともある。どこまで探すかは、そのものの効用と探すことに費やす貴重な時間との比較権衡になる。

(ii) さらに進めば「なければないまで」とその事態をそのまま受け入れるという選択が出てくる。ただそれもやはり達した人の心境かもしれない。

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