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2018.01.02

デジタル資産の行方

デジタル資産はどこに行くのか。人々が残すデジタル資産について、ラジオで採り上げていた(My Digital Legacy)。

古くから人のしている活動は絵や文書、写真、映像などに残されてきたが、これまでそのような記録は物理的な存在であった。ところが今はその多くが電子化され、直接手で触れることはできないものになってきている。しかもそのようなデジタル資産は自分や組織のコンピュータの中だけではなく、インターネットの世界にも蓄積されていく。最近のソーシャルメディアには人々の行動や発言が膨大な記録となり共有されている。

しかし、そのような記録は本当に資産なのか。もし資産であるならそれをどのように残していくのか。それをラジオで話し合っていた。

インターネットに残されている記録はデジタル資産と言われるが、それは本当に資産なのか。このような質問が発せられるのは、ネットの中に残るものに、まだ手触り感がないからであろう。ラジオで識者は、デジタル資産には、金銭的な価値を持つものと、人々の気持ちの上で大切と思うものがあるとしていた。前者はネットで購入した書籍や音楽などであり、後者は写真や私的なメールのやり取りや文章であるというのである。

この議論は一見すると説得的ともいえるが、ことさらにデジタルを強調しているように見える。資産とは何かをまず定義し、そのうえでその資産性がデジタルという要素によって変化するのかを考えるのがいいように思う。

資産とは本来会計の用語であるが、資産とは何らかの価値があるものと考えると、それには金銭的な価値のあるものや、感情に訴えかける価値のあるものだけではなく、歴史的価値、学術的価値、共同体結合の価値、その他いろいろな価値のある資産を挙げることができる。

そのうえで資産がデジタルになっているときにその資産性が変わるのかを考える。すると、手に触れらなくとも価値を減ずることのないものがあると気付く。電子データは物理的に存在するデータに比較すれば瞬時に消え失せる可能性があるが、それ故に価値がないということにはならない。機械にかけなければ見ることのできない記録であっても、情報として価値を持つ資産であることは間違いない。

対価を払って入手しているデジタル情報などは、まさに資産である(譲渡についてはユーザー・ライセンスの定めに従うが)。またネットで共有されている家族の写真や個人的な思い出など、普遍的な価値はないかもしれないが、その人にとってはかけがえのないものとなる。さらに時間が経過することにより個人的な価値ばかりではなく歴史的な価値を持つものになることもある。学問的な価値がある記録も出てくる。

デジタル空間やネット社会の性質も考えておく必要がある。そこでの人々の活動はどのようなものなのか。

かつてよく聞いた仮想空間という表現が今あまり使われなくなったのは、デジタルの世界が一般的になり、画面の向こうにいるのは私たちと同じ人々である、そう皆が理解するようになったからである。たとえ実際に顔を合わせていないオンラインでの交流も、真実の交流である。電話が登場した頃は人々は奇妙な道具と思ったが、今はそのようなことを言う人はいない。ネットワークの世界もそれと同じ。

このようなことを勘案すると、ネット社会も現実の社会であるし、そこに積みあげられた記録も現実の記録であって価値を持つのは自然なことと思われる。

今ネットへの接続は人々の日常に欠かせないものになっている。デジタルネイティブといわれる若い世代は、ネットで新聞やニュースを読み、映像や音楽を楽しみ、読書をし、情報を集め、交遊している。インターネットへの接続がなければ途方に暮れるであろう。彼らにとってソーシャルメディアを使った友人とのやり取りから得た友情は、真実の友情である。

若い世代だけではなく、病床にある人にとって、ネットへの接続により外部とつながることは、健康な人以上に切実なものになっている。たとえ高齢者でもつながりを求める点では同じである。静かに好きな音楽を聴く、友人からのメールに慰藉を見出す。多くの病院でもそれを考慮し、無料の無線接続ができるようになってきている。

つまりオンラインでの生活も実生活なのである。すでにインターネットへのアクセスを法的権利、あるいは基本的人権としている国もある。

しかしここから問題が生まれる。そこで活動していた人物がいなくなったら、ネットの世界に蓄積されている情報はどうなるのか。冒頭に述べたように今は膨大な記録がソーシャルメディアに残されている。

あるときからアカウントの更新が止まるが、ネットの中には故人となった人の活動がさまざまに残っている(フェイスブックでは追悼アカウントを設けている)。

ネットに存在し続ける記録は、残された者にとってその人を偲ぶよすがともなるが、苦痛を与えることもある。記録を残したいと思う人もいれば、削除や変更したいと願う人もいる。そのようなことは可能か。また故人の友人にはどのようにして告知するのか。パスワードはどうするのか。様々な問題が出てくる。

このあたりから、ラジオの議論は細々した話になるので割愛するが、番組を多様な問題のリストとして聞いておく価値はあるかもしれない。

番組を聞いていれば、デジタル資産の行方についてはまだ世の中で議論を重ねていかねばならない大きな問題があるようであるが、こうも考える。

残されたデジタル資産については、相続人や関係者のアクセス手続、パスワードや認証、媒体の品質の問題など色々ある。ただそれは従来もあったこと。例えば技術についていえば、録音テープの劣化、酸性紙がぼろぼろになること、もっと前なら紙魚の問題など。エジプトのパピルスにも何か問題があったはずである。また故人が第三者や公的機関に預けていたものを引き取ったり閲覧するためには、煩瑣な手続上の苦労があったはずである。それぞれに個別の事情がある。

ここで注意しなければならないのは、技術や手続についての話に終始したり、場合によっては技術や手段を擬人化してしまうことである。マルクスの言葉を借りれば物神化である。そこからラッダイトの機械打ち壊しのようなものも出てくる。悪いのは機械だ、というわけである。けれども技術は手段であり、そこに意思はない。あくまでそれを使う人間の問題である。ネットの世界に没入するからといってネットに問題があるのではなく、ネットを使う人間の方に問題があるのであって、もっと人間の方に目を向ける必要があるのではないか。

本当に論ずべきは、デジタルという包み紙を取り除いた資産の行方である。手段はデジタルに変わっているが、その先にあるのは、故人の置いて行ったものについて、残された者がどう折り合いを付けるかという問題である。遺品の片付けはいつの時代にもある。故人を偲び、ときに痛切な思いを伴うことも昔と変わらない。媒体というか手段には特有の問題があるかもしれないが、それはいつの時代にもある個別事象であって、あまりデジタルという点にこだわると大本を見失うのではないか。

大分前のアメリカの映画に、亡くなった最愛の妻の声が録音されていたテープを誤って消去しその声を再び聴くことができなくなってしまうという印象的なエピソードがあった。このときは故人を偲ぶ手段は録音テープであった。けれども大切なのはテープそれ自体というよりそれが象徴する故人への思いを自分の中でどう整理するかではないのか。さらに遡れば、故人を偲ぶ手段は写真、手紙、肖像となり、粘土板にもなるであろう。北海道から東北地方で縄文時代の子どもの手形や足形の粘土板が出土しているが、それは死んだ子どもの形見であるといわれる。形は変われど人の心は変わらない。考えるべきは心の問題のような気がする。

デジタル資産についてもそのうちに議論は落ち着くべきところに落ち着く。残るのは昔からある人間の営み。残された者が暫らくは故人のものの始末をするが、各自に残る思い出も一世代過ぎれば多くは忘却される。100年すれば今この世で息をしている者はほぼ居なくなる。我々に関する文字も写真も映像もいずれなくなる。デジタル資産も、70万巻といわれたアレクサンドリアの図書館の書物と同じ運命を辿るのかもしれない。

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